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 ひとり占めしたい笑顔

―そいつ、誰だよ?

保育科の入った校舎の前で、琴子が見知らぬ男と話をしていた。
大きな口を開けて楽しそうに笑っている。
オレは、なんだかすごく嫌な気分になって、少し離れたところで琴子を見ていた。
すると、そんなオレを琴子が見つけて大きく手を振った。


「入江くーん!」
満面の笑顔。
オレは、ちょっとバツが悪くなって琴子から目をそらした。
「どうしたの?これからまだ講義があるんでしょ?」
琴子は、飛びつかんばかりの勢いで、オレの前に走り寄ってきた。
「急に休講になったんだ」
オレはぶっきらぼうに答える。


「えっ?えっ?・・・じゃあ、じゃあ一緒に帰れるのー?」
琴子の声が1オクターブあがり、オレの腕を掴んでぴょんぴょんと跳ねる。
「ああ・・・そう思ったけど・・・」
オレは、言葉を濁して今まで琴子が話していた男にあごを向けた。
それに促されるように、琴子がその男を振り返る。
「えっ?彼?・・・やだぁーあの人は、じんこの彼氏だよ。じんこったらデート
だからって、トイレでお化粧なおしてるのよ。だから、じんこが来るまでちょっと
お相手してあげてただけなの」
琴子が上目づかいに、大きな瞳だけをオレにむけてにやりと笑う。

「な、なんだよ」
オレは、琴子に背中を向けた。
「ねえ入江君?もしかしてぇーやきもちとか焼いてる?・・・ねえ、そうでしょ?
入江君って、以外とやきもち焼きだもんねー?」
琴子が、背中から回り込むようにして、オレを見上げてクスクス笑う。
「そんなわけないだろ!行くぞ」
オレは、ムキになって答えると、そのまま振り返りもせずに歩き出した。
「えっ?ちょっと待ってよー怒っちゃったのー?ねえ、待ってってばー!」

―そう・・・オレって結構やきもち焼きなんだ。
参ったな、琴子にも見抜かれてたなんて。



琴子と結婚して、医学部に戻って数ヶ月・・・オレは少しでもブランクを埋めようと
必死になって勉強していた。
講義が終っても図書館で勉強を続ける日々。
(家に帰ったら絶対に勉強なんてできない・・・)
だから、新婚だっていうのに、琴子をあまりかまってやっていなかった。
そんな中、今日はたまたま講義がひとつ休講になったから、久しぶりに琴子と
一緒に早く家に帰ろうと思って、迎えに来たのに・・・


―まったく、突然迎えに行って喜ばせてやろうなんて思ったのが間違いだった。


信じていないわけじゃない。
疑っているわけじゃない。
そんなんじゃないんだ。

琴子が追いかけてくる足音を背中で聞きながら、ふと横を見るとテニスコートの
脇を歩いていた。


―やきもちか・・・
ふいに、大学1回生の夏休み。須藤先輩との賭けに負けて参加したテニス部の
合宿のことが思い出された。


あの合宿の時は、琴子が一時期オレの家から出て行っていた頃で、オレの
ココロの中にも微妙な変化が起きている頃だった。
ほんの少し琴子と離れたことによって、あいつがオレにとって特別な存在で
あることに、オレは気づいていた。
それが愛とか恋とかいうものだとは思っていなかったが、確かにオレの中で、
琴子は何にも代えがたい存在になっていた。


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琴子が現れてからというもの、オレはそれまで経験したことのないさまざまな感情を
体験していた。

それはあまりに人間らしい感情で、琴子と出逢う前のオレが、いかに淡々と無感動な
日々を送っていたかを思い知らされるようなものばかりだった。


苛立ち、感動、不安、喜び、焦り、怒り・・・

そんな感情が、オレのココロに湧き上がるたび、必ずと言っていいほど、オレの傍ら
には琴子がいた。

そして、嫉妬するという感情も・・・

あの合宿最後の夜。翌日に須藤・松本ペアとの試合を控えて、オレは少しでも早く
最後の練習をしたいと思っていた。
それなのに、オレが琴子の代りに食事を作っていたことがバレて騒動になったかと
思えば、そのドサクサに紛れて、松本がオレを合宿所の外へ連れ出し、わけの
わからないことを言い出す始末・・・
オレの苛立ちはピークに達していた。
そんなときに、植え込みの向こうから聞こえてきた声・・・


琴子が近くに隠れて、こちらを伺っていることには気づいていた。
だから、その声が琴子のものであることも、オレにはすぐにわかった。
しかし、潜んでいるにしてはあまりに楽しそうな笑い声・・・
松本が、緊張した面持ちで何か言っているのを聞き流しながら、オレは植え込みの
向こうが気になって仕方がなかった。


あいつが、誰と一緒に笑っているのか?・・・


オレはたまらなくなって、植え込みをかき分けた。
琴子と須藤先輩が地面に座って笑い転げていた。
オレが、後ろに立っていることにも気づかず、夢中で何か話している。
須藤先輩の手が琴子の肩にかかっていた。

オレは、一瞬二人に気づかれないまま背を向けようと思った。
でも、出来なかった。
あの時の、全身がカッと熱くなるような感覚は、初めて味わうものだった。


「お楽しみのところ失礼!特訓の時間なんでお借りしますよ」
オレは、感情の まま言葉をぶつけていた。


理由なんて何でも良かった。
ただ須藤先輩からあいつを引き離したかっただけなんだから・・・

特訓は、おそらくあの一週間の中で一番過酷なものだっただろう。
オレは、容赦なく力一杯にボールを打っていた。
琴子の体のことなど考えていなかった。



―お前はオレが好きだったんじゃないのか?
―誰のために、毎晩こんなに汗をかいて特訓してると思ってるんだ?
―なんであんなに楽しそうだったんだ?
―オレは、どうしてこんなに怒ってるんだ?
打っても、打っても消えていかない苛立ちに、琴子が足を痛めていたことにも、
オレは気づいていなかった。



翌日、いよいよ試合が始まるという時、それでもオレは勝てるような気がしていた。
あれだけ、毎日オレのサーブを受けていた琴子が、須藤・松本ペアの球を打てない
はずがないと思っていた。
ただ一球、相手コートの中に球が落ちればそれでオレたちの勝ちだ。


「怖がるな、お前一人じゃない。オレがいるんだから、緊張するな」
一晩たって、冷静さを取り戻していたから、琴子に優しい言葉をかける余裕ができていた。


思っていた通り琴子は、以前は手も足もでなかった須藤先輩の球をラケットに当てた。
そして、須藤・松本ペアに動揺が走る中、転びながら打った琴子の球が、相手コートの
ラインギリギリに落ちて、オレは掛けに勝った。

しかし、琴子が立ち上がらない。
足首に手をあてて、苦痛に顔を歪めている。
「いつひねった?」
「昨日の夜・・・」
「なんで早く言わない?試合の前にも聞いたろ?」


その後、琴子が言った言葉がオレのココロに突き刺さった。
「そうしたら、試合できなくなって入江君が女装させられちゃう」


―そうだ。お前はそういう奴だったんだ。

オレがどんなにつらく当たっても、琴子はオレのことを優先するんだ。


「バカ」
それしか言葉がみつからなかった。


―こんなになるまで、痛かっただろう?


オレは、その後の試合を棄権することを須藤先輩に告げた。
もう、試合などどうでもよかった。


琴子を立ち上がらせようとすると、痛くて力が入らないようだった。
オレは、一瞬躊躇したが、意を決して琴子を抱き上げた。


T大受験の日、倒れた琴子を病院に運んだときのことを思い出した。
あの時も、オレはなんの抵抗もなく琴子を抱き上げた。
そして、あの時のように、オレは琴子の異常に気づいてやれなかったことを
悔やんでいた。



琴子を抱えて歩きながら、昨夜の苛立ちがすっかり消えていることに気がついていた。
須藤先輩との関係がどうであれ、今琴子がこの腕の中にいることに安心していた。


オレの思わぬ行動に戸惑い、体を硬くしていた琴子だったが、オレの首に回した手に
ほんの少し力が入ったのを感じた。
その瞬間、オレのココロに琴子の”好き”が流れ込んできた気がした・・・


―そうさ。お前はオレが好きなんだよ。



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テニスコートの前で苦笑いしているオレに、琴子が追いついてきた。
「もうー!入江君って歩くの早いんだもん」
「お前の足が短すぎるんだよ」
「なによ、もうーー!迎えに来てくれたんじゃなかったの?」
息を荒くして文句を言う琴子を、オレはじっと見つめた。
「ん?」
琴子がオレを不思議そうな顔で見つめ返す。

―オレって、本当に捻くれてるんだ・・・
あの頃と少しも変わっていないんじゃないだろうか?

琴子の気持ちは、いつでも真っ直ぐにオレに向かって来るのに、オレの気持ちは
不器用で、素直にその気持ちに答えてやれない。
試して、不安になって、確かめて、安心する・・・そんなことの繰り返し。


もちろん琴子を泣かす奴は許さない。
そして、琴子を笑顔にする奴にオレは嫉妬するんだ。


琴子を幸せに出来るのは、オレしかいないことはわかっているのに・・・

「なんでもない!」
オレは、結局優しい言葉もかけてやれずに、再び歩き出した。
琴子は、三歩後ろを付いて来る。
「ねえ、入江君?あのね・・・手繋いで歩きたいな・・・」
耳を澄まさなければ聞こえないほどの小さな声が聞こえてきた。


―ふっ・・・やっぱりお前にはかなわない。


オレは立ち止まると、前を向いたまま左手を後ろに差し出した。
琴子の右手が、嬉しそうにオレの手を掴む。
オレは、その手をしっかり握りしめて傍らの琴子を見下ろした。
琴子が上目遣いにオレを見上げて、幸せそうに微笑む。


オレは琴子のこの笑顔に弱い。
この笑顔をひとり占めしていたい。



それなのにオレは、無理に顔を引き締めて、呆れ顔を琴子に返した。


―やっぱり、オレって捻くれてる・・・



だって、そうでもしなきゃ、オレが琴子に参っちまってることが、わかってしまう。
そんなの、オレらしくないじゃないか・・・


―カッコ悪いよ。

                                      END



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