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 あの時できなかったKiss

「あれ?・・・ドイツ語の辞書はどこだったかな・・・」
オレは、本棚の中にドイツ語の辞書を探していた。


本来、オレに辞書はあまり必要ない。
一度読めば忘れることはないから、頭の中に辞書をもっているようなものだ。
しかし、今読んでいるドイツ語の医学書の中には、聞いたことも読んだこともない言葉が
いくつか並んでいた。


「あった、あった・・・」
オレは、本棚の片隅にすこしホコリを被った辞書を見つけ、それを引き出した。
すると、となりに立ててあった小冊子が数冊辞書に張り付くようにして一緒に引き出され、
床に落ちてしまった。

―しまった!

オレは、辞書を左手に持ち替えて、落ちた小冊子を拾った。
別段、何てことのないブックレットだった。


―ん?なんだこれ?・・・CD-R?


ところが拾ったブックレットの間に、丸い鏡のようなものが覗いていた。
それは、ケースにも入れられていない裸のCD-R・・・表に返してみたが、そのCD−Rに
何が書き込まれているかの記述は何もなく、ただ、そのCD-Rを作っているメーカーの
ロゴが大きく書かれているだけだった。
もう一度裏返して記録面を見ると、わずかだが何かを記録した跡が見える。
オレは興味を覚えて、パソコンの前に座ると、画面に開かれていた文書ファイルを閉じて
からドライブにCD-Rを差し込んだ。

―写真みだいだな・・・

パソコンの画面に現れたファイルのアイコンをクリックする。

―この写真は・・・

オレは、たった今まで自分がしていたことも忘れて、パソコンの画面に映し出された
写真に、見入っていた。
懐かしさが込み上げ、甘酸っぱいような思いが胸にわきあがった・・・


―琴子・・・すごい顔だ。

オレは笑い出したくなるのを押さえられず、思わず誰もいないはずの部屋を見回した。
五枚ほど記録されていた写真をつぎつぎと見ていく。



それは、あの大雨の夜・・・

オフクロにハメられて琴子を泊めることになった夜。
あまりに寝相の悪い琴子に何度も蹴飛ばされた腹いせに、寝顔の写真を撮って、
目覚めた琴子に見せてからかったときのもの。

琴子はあの夜のことを覚えているんだろうか?


最初は、何かを期待して緊張している琴子がおかしくて、迫る振りをしてからかった
りもした。
もちろん、何かが起こることなどありえなかったし、そんな気はさらさらなかった。
でも、結局は自分で自分に呪文をかけてしまったようなものだったんだ。

あの時、琴子はしばらくオレの顔を眺めていた。
オレは、なんだか居心地が悪くて、寝返りをうつ振りで琴子に背を向けた。
しばらくすると、いつの間にか眠った琴子の足がオレのわき腹を蹴飛ばし、オレをベッド
から突き落とし、それはそれはすごい寝相に、オレはあきれて物も言えなかった。
結局、琴子の攻撃をかわしながらまんじりとしない夜が更けていった。


ただ・・・

オレを蹴飛ばしながら琴子が寝返りをうつたびに、髪の香りが鼻をくすぐる。
オレを殴りながら琴子の手がオレの胸に乗るたびに、やわらかな感触が鼓動を早める。

どんなに後ろを向いていても、背中に感じる琴子の息づかいに、オレのココロのざわつき
は止まらなかった。

オレは眠るのをあきらめて、ベッドから降りると苦笑しながらしばらく琴子の顔を眺めていた。
いつもなら、目が合えばすぐに逸らせてしまうのに、あの時はじっと見つめていられた。

黒くて長いまつ毛。
まっすぐで艶やかな黒髪。
小さめで丸い鼻。
少し厚めのやわらかそうな唇。
あんなに長く琴子の顔を見つめていたのは、初めてだったような気がする・・・


オレだって男だ。
甘い感情が湧きあがらないでもない・・・
口を半開きにして、静かな寝息をたてている琴子の唇に、口づけてみたい衝動を
何度も振り払った。

オレは、ふと思いついてデジカメを持ってくると、琴子の寝顔を写真に撮った。
オレを眠らせてくれなかった仕返しに、朝になったらからかってやろうと内心ほくそ
笑んでいた。

結局、オレはなんとか踏みとどまり、もう一度琴子の隣に寝転んだ。
少し落ち着いたココロに、琴子の香りが沁み込んで、いつの間にか眠りに落ちていた。


「オフクロの思い通りにはなりたくない・・・」
この思いだけが、かろうじてオレのココロに理性の鍵をかけていたんだろう。
将来のことも、琴子のことも、自分で決めたかった。
だから、あの夜だけは決して琴子と何かあってはいけなかったんだ。


―長い夜だったよな・・・


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「入江君、がんばってる?」
急に部屋のドアが開いて、琴子が顔を出した。

「あ、ああ・・・」
オレは、少し慌ててパソコンの画面を閉じた。
心地よい思い出の流れを遮断されて、オレは少し不機嫌な視線を琴子に投げた。

「ん?・・・あやしいぃ〜〜!なんで、急にパソコンを止めるの?」
琴子は、オレの態度に疑いを持ったのか、部屋の中に入ってくるとオレの前に立って
疑いの目でオレを見下ろした。

「別に何でもないよ」
オレは、琴子の目を見ずに答えた。

―だって、吹き出してしまいそうだったから・・・

「ますます怪しい。何みてたの〜?ねえ、教えてよ〜まさか、入江君に限ってエッチな
写真とか見ないよね〜そんなのやだぁ〜ねえ、私には見せられないものなの〜?」
琴子の妄想は、行き着くところまで行ったらしく、涙声になって食い下がってくる。

「じゃあ、見せてやるよ。ほら!」
オレは、画面のアイコンをクリックした。
期待に胸を膨らませて画面に見入る琴子の瞳がみるみる大きくなる。

「えっ?えええええ〜〜〜!この写真。削除してくれたんじゃなかったのーーー?」

あの時と同じあわてぶり。
オレは、想像通りの琴子の反応に、もう抑えきれず声をあげて笑った。


あの時、削除してくれと半泣きになっている琴子に頷きながら、こっそりとCD-Rを
差し込んだ。削除している振りで、そっと保存のボタンをクリックしていた。

―あの後、実家に戻る時の荷造りで、こんなところに紛れてたんだな・・・

目の前の琴子は、まるであの時のように画面と顔を交互に手で覆いながら、「削除して」
を繰り返している。

―バーカ。こんな貴重なもの、消したりするもんか。

オレは、騒ぐ琴子の腕を掴んで引き寄せた。
琴子は膝を突いてオレの胸の中に落ちてくると、驚いてオレの顔を見る。

―あの夜、お前の寝顔を見ながら、オレがどれ程葛藤していたか、お前にわかるか?

オレは琴子を抱きしめると、琴子の向こうのパソコンの画面を見た。
そこには、素直になれなかったオレの少し歪んだ感情が写し出した、あまりに無防備な
琴子の寝顔があった。

―今なら・・・

琴子は、オレの行動にきょとんとしながら、されるままになっている。
オレは琴子の頬に手をあてると、ゆっくりと顔を近づけていった。
琴子が自然と目を閉じる・・・

オレは、ちょっとイタズラ心を出して寸前のところで動きを止めた。
オレのキスを待っている琴子の顔をじっと見つめて、思わず吹き出した。
突然笑い出したオレに驚いた琴子が、目を開ける。
「なによ!またからかったのね?ひどいじゃない!まるであの時の入江君みたい!」
琴子は立ち上がると、怒ってオレに背中を向けた。

「お前あの時もかなり期待してただろう?」
オレは、琴子をこちらに向かせながら、その目を覗き込むようにして聞いた。

「えっ?そ、そんなことないよ・・・あの時は、私が一方的に入江君を好きだったんだから、
何か起こる方が不思議でしょ?」
琴子にしては珍しく殊勝なことを言う。

―もうだめだ。

今はオレの妻になった琴子と、ただ一途にオレに片思いしていた”あの頃”の琴子が
ココロの中で交錯して、愛しさと熱い思いが込み上げる。
今はもう誰にはばかることもない。
口を尖らせて何かぶつぶつ文句をいっている琴子を、オレはもう一度抱きしめた。
一瞬体を硬くした琴子も、すぐに力を抜いてオレを抱きしめる。
オレは琴子に唇をよせた。
もう何度もキスはしているのに、なんだか不思議な感覚がオレを包んでいた。


―今度は止めないよ・・・いまこそ、あの時出来なかったキスをしよう。

                                      END



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