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 もし、出会っていなかったら…

「もし、入江君に出会ってなかったら、私の人生ってどんなだったんだろう・・・」
ペンを唇に当てながら、ふいに琴子がにつぶやいた。
「間違いなく、看護士なんて目指してなかったよね・・・」
琴子は横目でオレを見上げると「えへへ」と笑った。


「何のん気なこと言ってんだ。さっさとこの問題やっちゃえよ!誰の試験勉強なんだ
よ!」
オレは、琴子を睨むと、目の前の問題集を指でたたきながら言った。


結婚しても、相変わらずオレは琴子の試験勉強を手伝わされていた。


―オレのいない琴子の人生だって?・・・突然何を言い出すんだか・・・
舌をだして肩をすくめながら、慌てて問題に取り組む琴子を見ながらオレは苦笑し
ていた。


琴子がペンを走らせる音を聞きながら、オレは窓の外を眺めていた。
ふと空を見上げると、あとひと息で満月になりそうな、ちょっといびつな月がオレを見
下ろしている。

”もし、琴子と出会っていなかったら?”か・・・
そうなら、オレの人生も、どんなだっただろう?


琴子と出会っていなくても、オレは医者になろうと思っただろうか?
何かしらココロに釈然としないものを抱えながら、オヤジやオフクロの望む道を進ん
でしまってはいないだろうか?

T大に入っていたかもしれない。
そうなったら、間違いなくパンダイの次期社長だ。
本当にやりたいことも見つけられず、そのことにすら気づかずに流されて・・・

恋はしただろうか?
琴子ではない他の女と出会って、その人を愛するんだろうか?
オレは、無意識に首を横に振っていた。
琴子以外の誰かを愛するなんて、想像もつかなかった。


でも、”もしも”という言葉で今と違う人生を想像するのなら、本当の意味でオレを変
えたあの出来事を思う・・・


”もし、あの日オヤジが倒れなかったら・・・”


きっと、社長代理なんて大役を引き受けることもなく、オヤジの会社の抱えている問
題も知ることもなく、ただ、自分の思い描いたビジョンのままに人生を歩いていただろう。
それまでの順風満帆な人生の延長上に、おそらく大した苦労もなく医者という職業を
手に入れていただろう。

でも、あの時一度絶たれたからこそ、医者になるという夢が自分にとってどれ程大き
なものだったかを知ることができたんだ。

琴子との関係もどうなっていただろうか?
沙穂子さんとお見合いをしなかったら・・・金之助が琴子にプロポーズをしなかったら
オレは、あんなにも鮮やかに自分の気持ちに気づくことが出来ただろうか?
自分で断ち切っておきながら、オレはみっともないほどに取り乱して琴子を探した・・・


「やったぁ!入江君、出来たよー・・・ん?どうしたの?むずかしい顔して・・・」
琴子が、心配そうにオレの顔を覗き込む。


「ん?ああ・・・ちょっと考え事してた・・・どれ、見せてみろよ」
オレは、ふいに声をかけられ少しどきまぎしながら、琴子が解いた問題に視線を落
とした。

「ああーわかった!」
琴子が急に大声を出した。
「さっき私が言ったことの反対を考えてたでしょ?」
ニヤニヤしながら琴子が言った。

「な、何だよ、お前が言ったことの反対って?」
オレは、しらばくれて聞いた。

「ふふ・・・もしも、私に出会っていなかったらって・・・ねっ?そうでしょ?」
琴子は自信満々に答える。

―こいつ、時々鋭いこと言うな・・・

オレは、聞こえない振りで琴子の問題集の答えあわせをしていた。
「おい、ここ間違ってるぞ・・・まったく!」


しかし、オレの言っていることなどお構いなしに急に真顔になった琴子が言った。
「入江君は、どうかわからないけど、私は思うの・・・たとえ高校の入学式で入江君に
会えなかったとしても、きっと私はどこかで入江君と出会うんだよ。そしてやっぱりひ
と目で好きになるの・・・こういうの運命っていうんだよね・・・」

オレは、ちょっとドキッとして琴子の顔を見た。
そんな歯の浮くようなセリフをさらっと言ってのける琴子に半ばあきれながら、ふいに
ひとつの答えが頭の中にひらめいていた。

―そうか・・・これが運命なら、どんなに考えても答えはひとつなんだ。

”もし、琴子と出会っていなかったら・・・”
そんなこと考える必要もないんだ。


「でも、私は入江君と出会えたことが一番の幸せな出来事だけど、入江君は私と出会
わなくても、きっと違う幸せがあったんだろうね・・・」
琴子が、オレから目を逸らしてひとりごとのようにつぶやいた。


―バカ・・・もっと、自信を持てよ・・・

「オレだって、お前と会えたのが一番の幸せだよ」
オレは、ココロの中でつぶやいたつもりで、声に出していたらしい・・・


「えっ?」
琴子が驚いてオレの顔を振り返る。


「ね、ねえ・・・もう一度言って!」
琴子が、すがるような目でオレを見上げる。
「言わねえ・・・」
オレは、問題集を見たままそっけなく答える。


「ええーー言ってよー!」


「言わねえよ!」


そして、オレは琴子を黙らせるために唇を塞いだ。
言葉の代りに琴子を抱きしめた。


結局、オレと琴子の間には、偶然も必然もない。
運命には逆らえないさ・・・


オレには、琴子と出会えない人生なんて用意されていないんだから・・・



                                         END



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