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 お前がいてくれて・・・

静まり返った夜のテラスに、オレはひとり立っていた。
明日からの研修に備えて、いくつか調べものをしていたら、すっかり頭が冴えてしま
って眠れそうにない・・・

窓を開け放ち、夜の風にあたりながら庭のプールを見下ろすと、滲んだ月が写って
いた。


ふいにキッチンから食器の触れ合う音が聞こえてきた。


―琴子か?・・・
ほどなく、コーヒーカップを二つ持った琴子が現れた。


「はい。コーヒーじゃないよ。オートーミール!」
琴子が、頭に寝ぐせをつけた眠そうな顔でカップを差し出した。
「なんだよ、寝てればよかったのに・・・」
オレは、カップを受け取りながら言った。
「うん・・・でも、入江君が出て行くのに気がついたら、なんとなく気になって・・・調べ
もの終ったの?」


「ああ、終った。オレももう寝るよ」

琴子は何も言わずに微笑むと、カップを持ったままソファに腰掛けた。
オレも、なんとなくつられてテラスの椅子に腰を下ろした。

「こんな風にしてると、なんだか思い出すね・・・」
琴子が遠くを見るように、視線を上げた。
「なにを?」
オレは琴子の視線の先を追うように聞いた。

「あの夜も、入江君こんな風にひとりでテラスにいたよね・・・」


「あの夜?・・・」
琴子に聞き返しながら、オレの脳裏にははっきりとひとつの情景が浮かんでいた・・・



あれは、オヤジが二度目の発作を起こした日の夜だった。

オレは、自分がひどくちっぽけな人間に思えて、なにもできない無力感に打ちのめ
されていた。
酸素マスクをつけてベッドに横たわるオヤジに、家族の誰もが不安を募らせ、オレは
そんなオヤジの姿を見ながら、医者になる夢をあきらめて、会社を継ぐ決心をしていた。
病気を治してやることのできないオレが、オヤジにしてやれることはそれしかない
と思えた。
それが、どれほど天才ともてはやされたオレでも、ひとりで背負うにはあまりにも
大きな現実だったとしても・・・


それでも、どこか割り切れない思いを抱え、ひとりでリビングにいるところへ琴子が現
れたんだ。

あの時、鳥目のくせに電気もつけずに階段を降りてきた琴子に、夜盲症に必要な栄
養について話したっけ・・・
あの頃にはもう、医学的に物事を考えるくせがついていた。
ほんの短い間だったとしても、すでにオレの頭の中は医学でいっぱいだった。



だからこそ、それまでの人生に、これほど捨てがたいものはなかったように思えて、
とても苦しかった。
いつでも何か新しいものが現れ、古いものは自然と置き去りにしてきたはずなのに・・・

<私で何か役に立てることはない?>


<ない>


<そう・・・入江君も早く寝たほうがいいよ・・・私寝るね。>
こんな会話をしたような気がする。


はじめは琴子には早くその場からいなくなって欲しいと思っていた。
こんな情けない自分を、見られるのが嫌だった。
そして、夢を捨てる理由を、納得するまで探しながら、ひとり眠れない夜を過ごす
つもりだったから・・・

それなのにオレは、素直にその場を去ろうとする琴子に、いつのまにか声をかけ
て引き止めていた。
オレのココロは、本当は琴子にそばにいて欲しかったんだろうと、今なら思える。




「あの時のことは、なんだか忘れられないな・・・」
それまでぼんやりと何かを考えていた琴子が、ふいに言った。


オレは、次の言葉を待ちながら琴子の顔を見た。


「あの時の入江君って、それまでの強くて何にでも自信満々の入江君とは違ってた
から・・・」
琴子が少し遠慮がちに言った。


「どんな風に違ってたんだよ」
オレは、あの時琴子がどう感じていたのかが知りたくなって、言葉を濁す琴子に話し
の先を促した。

「えっ?どんな風にって・・・」
琴子は、大きな瞳を上に向けてしばらく考えてからオレの顔を真っ直ぐに見つめて
言った。
「んー入江君がとってもおしゃべりだったから・・・かな?」


「おしゃべり?」
オレは意外な答えに驚いて聞き返した。


「うん。いつもなら私が一方的に話すのを、適当に聞き流してる感じだったでしょ?
それなのに、あの夜は入江君から話しかけてきて、たくさんのうそをついてた・・・
とっても苦しそうにね・・・私すごく切なくて思わず抱きついちゃったよね?・・・だっ
て、入江君の背中が本当に寂しそうに見えたから・・・」
琴子は、照れくさそうにいうと、カップを口にあてる振りで涙の浮かんだ顔を隠した。


―おしゃべりか・・・


オレは、目を閉じてあの夜のことを思い出しながら苦笑していた。
確かにオレはおしゃべりだったかもしれないな・・・


あの時、琴子に抱きしめられた背中から伝わってくるぬくもりに、オレは自然と涙が
込み上げてくるのを感じていた。
悔しいものは悔しいと、悲しいことは悲しいと、素直に思ってもいいのだと、琴子が
言っているように、思えた。
そしてオレは、目を閉じて琴子の鼓動と嗚咽を聞きながら、もしできるならこのまま
時間を止めたいとさえ思っていた。



ふいに琴子がオレの背中に抱きいてきた・・・そう、まるで、あの時のように。

「入江君の夢・・・叶ってよかったね。あの時、あきらめなくて済んでホントよかった。」
オレの頬に、自分の頬を押し当てて琴子が囁いた。

「バカ。まだ叶ってねーよ。まだまだ勉強しなきゃ・・・お前が邪魔しなけりゃ、もっと
はかどるんだけどな・・・」
オレは、言葉と裏腹に胸で交差する琴子の腕を優しく撫でた。

琴子の腕に力が入り、押し当てられた頬と頬の間を涙が流れて落ちた。
肩口に感じる琴子の鼓動と、首に触れる腕の柔らかな温もりが、あの時の感情と入
り混じってオレをとても幸せな気持ちにさせてくれた。



もしかしたら、あの時・・・
オレは、琴子にオレの決心を否定して欲しかったのかもしれない。
「医者になる夢を捨てるな、あきらめるな」と言って欲しかったのかもしれない。
きっと、琴子ならそう言うだろうと思ったから・・・
そして、オレはそんな琴子にどうしてもあきらめなければならない理由を並べなが
ら、実は自分自身を納得させようとしていたんだ。


―結局、オレはいいことも悪いことも、琴子にならなんでもさらせたってことか・・・


それなのに、オレはあの後琴子を随分と悲しませた・・・
ひとりで背負ったものの大きさに、オレの歯車は少しずつ狂っていたんだろう。
あと少しのところで、取り返しのつかない過ちを犯すところだった。

夢だけじゃなく、琴子まで失いかけたんだから。
本当に、あの頃のオレはどうかしてたよな・・・


―ん?

オレの背中に抱きついたままの琴子から、ふいに力が抜けた。
滑り落ちそうになるところを、あわてて腕を掴んで引き戻す。

「お、おい!琴子!」
オレは琴子の顔を見て、思わず吹き出しそうになった。


琴子は、床に膝をついて抱きついたまま、オレの肩の上で静かに寝息を立てていた。
オレは呆れて天を仰いだ。

―普通、こんな格好で眠れるか?・・・子供みたいな奴だな。

でも、ふと思った。
琴子の、この無邪気さと、むき出しの愛情がオレをずっと支えていたんだと・・・
オレがどんなにつれなくしても、冷めることのなかった琴子の一途な想いがなかった
ら、今のオレはいないのだと確信できた。


―琴子と出会った時から、オレの人生は動き出したようなもんだからな・・・


オレは、琴子が後ろに倒れてしまわないように腕を掴みながら、カップをテーブルに
置いた。
頭を支えながら、後ろに回り込むと琴子をそっと抱き上げて、階段を上っていった。


オレは、琴子のあどけない寝顔に唇を寄せて、そっと囁いた・・・

―琴子?ココロから思うよ。お前がいてくれて、本当によかった・・・って。



                                         END



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