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 生日快楽−Happy Birthday− <1>

オレは、すこし緊張しながら、病院の色調に合わせたピンク色のドアの前に立った。
目の高さまで鍵を持ち上げてみる・・・小さなリングに通された二つの鍵が、目の前で揺れな
がら鈴のような音を立てた。

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「これは、異例のことなんだがね・・・」
ふいに呼び出された院長室で、オレをじっと見つめながら院長が切り出した言葉・・・

院長は、研修医になってまだ間もないオレを、特別に正規の医師に昇格させることにしたと告
げた。

―オレは、研修医じゃなくなるのか?・・・

「それだけ我々は君に期待しているということだよ。まあ、がんばって・・・」
院長が、微笑みながら差し出した右手を、オレは何の実感もないままに握り返した。
その時、突然のことだったからか、昇格を嬉しいという気持ちも、責任が重くなったことへの緊
張も感じはしなかった。
それよりも、不思議なことにオレの脳裏には、「入江君ならお医者さまにもなれる」と初めて言
われたあのファミレスでの琴子の顔が浮かんでいた。

「正規の医師と認められると、自分専用のオフィスが与えられることは知っているね・・・」
「はい・・・」
「もちろん、君にも用意してあるから、このあと事務局へ寄って鍵を貰っていくといい・・・」
院長は、満足げに頷くと、それで話は終わりだというように、オレに背を向けた。

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ドアに鍵を差し込んで、ゆっくりと回す・・・カチリとした手ごたえが伝わってきて、何か特別な
ことが始まる前のように、気持ちが高揚してくるのがわかる。
ドアを開けて中に足を踏み入れると、部屋の中央に置かれた大きな机と革張りの椅子が目に
入る。
そして、仮眠にも使えそうなゆったりとしたソファと、壁にすえつけられたキャビネットがある。
オレは、医局の椅子と比べると格段に上等になった革張りの椅子に腰掛けて、まだガランと
した部屋を見回した。

―今日から、ここがオレのオフィス・・・

オレが一人前の医者になったことを知ったら、琴子はどんな反応をするだろうか・・・
きっと、オフクロと二人で、大騒ぎをしながらお祝いのパーティーをすると言い出すんだろう。
オレは、そんな光景を思い浮かべて、笑いをかみ殺した。

―オレが正規の医師に・・・

たとえ異例の出世とはいえ、これからも続く長い医者としての人生の中では、それもほんの
通過点にしかすぎない。
しかし、一人前の医者になれたと思ったとき、ふと脳裏に浮かんだのは、裕樹が入院していた
ときに、オレのバイト先のファミレスで、琴子が言った言葉・・・

<たくさんの人が入江君のおかげで健康になるの・・・ステキじゃない?>

そう・・・今ここに座っているオレの、医者を志してからの道のりの一番初めに琴子がいる。
ふとその瞬間、あの時琴子が望んだオレの未来が、今ひとつのしっかりとした形になったのだ
とあらためて実感した。
そして、あの頃からずっと変わらず、琴子はオレの傍らにいてオレを愛している・・・

琴子に出会わなければ、オレはきっと医者にはなっていないだろう・・・
琴子に愛されなければ、オレはきっと誰も愛せなかっただろう・・・
琴子に出会わなかったら、オレはいったいどんな人間になっていたんだろう・・・

―琴子・・・お前に出会えて、本当によかったって思うよ。

ふいに胸に温かなものが広がり、静かな感動がオレの体を包んでいた。
そしてオレは、腕を組んで目を閉じると、昇格のことを琴子にどうやって伝えようかと考えた。

―そうか!明後日は琴子の誕生日だ。

あれだけ毎日、繰り返し念をおされて、あんなにも誕生日を楽しみにしている琴子を見ている
と、さすがのオレも、何かしてやろうかという気にもなってくる。
今日も医局のロッカーの扉の内側に「あと二日」と書かれていた貼り紙があったのを思い出し
てオレは、思わず苦笑した。

―よし、明後日、誕生日の食事をした後、ここへ琴子を連れて来よう。

オレは、そう決心すると、まずは、ここへ運び込まなければならないものを、思い浮かべた。
研修医だったころから、先輩医師たちのオフィスを見るたびに、いつかオレが自分のオフィス
を持った時には、その部屋をどうするかは、もう決めてあった。

ただ、明後日の琴子の誕生日までに、それを完成させようと思うと至難の技だ。
何よりも琴子にばれないように、ことを運ばなければならない。
幸いにも、琴子は今誕生日のことで頭がいっぱいだから、なんとかなるだろうか・・・

まずは、医局からこの部屋への引越しを早く済ませなければならないと気がついた。
オレは、机の上に投げ出してあった鍵を掴むと、勢いよく立ち上がった。
そして、琴子が驚いて喜ぶ顔を思い浮かべると、自然と緩む顔を引き締めながらオレはオフ
ィスをあとにした。


                                           つづく


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