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 愛された軌跡 −2−

その日の碧潭は、平日ということもあって、人もまばらでボート乗り場にはたくさんのボート
が係留されたまま、静かな波に揺れていた。

オレと琴子は、手を繋いでゆっくりと桟橋をその先端に向かって歩いていた。
ここまで来る道中、うるさいほどにはしゃいでいた琴子が、急に黙り込んでしまったことを気
にしながら、オレは、あの日と同じ景色の中に踏み込んでいった。

ボート乗り場の係員が誘う声に適当な返事を返しながら歩いていると、琴子がふいに立ち
止まった。

「どうした?ボートに乗りたいとか言うなよ・・・」
オレは、振り返りながら少し後ろに立つ琴子に声をかけた。

「ううん、そうじゃないの・・・ねえ、見て・・・こんなところに車椅子がある・・・」

琴子の指差す方向を見ると、確かにそこには少し場違いな赤い車椅子が置いてあった。

「足の悪い人が、ボートなんか乗って大丈夫なのかな・・・」
琴子が、ひとり言のようにつぶやくのに、オレは「そうだな」と答えると、水面に浮いている
いくつかのボートに視線を投げながら、琴子の手を引いて再び歩き出した。

結局、琴子は車椅子のこと意外は何も言わないまま、オレたちは桟橋の先端に到着した。
相変わらず押し黙ったままの琴子は、対岸の景色をゆっくりと頭を巡らせて眺めていた。
オレは、あの日、呆然と見つめた景色をあらためて見ながら、あの日とは違い、今は琴子
が隣にいることを確認するように、その手を無意識のうちにしっかりと握りしめていた。

「風が気持ちいいね・・・」
ふいに琴子が言った。

「ああ、そうだな・・・」
オレは、目を閉じて頬に空気の流れを感じながら答えた。

「ねえ、入江君?・・・あのね・・・肩を抱いて欲しいな・・・」
琴子が、少しはにかみながらポツリと言った。

オレは、琴子の言葉に少し戸惑いながら、言うとおりに繋いでいた手を離してその肩に腕
を回した。
「これでいいか?・・・」

「うん・・・」
琴子は、安心したように小さく頷くと、オレの腰に手を回してシャツを掴むと、肩に頭を乗せ
てきた。そして、大きく息を吸い込むと、吐息まじりの震える声で言った。
「またここに一緒に来られたね・・・ずっと、来たかったの・・・できればこの子が生まれる前
にもう一度・・・」
見ると、琴子は、片方の手で膨らんだお腹を愛おしそうに撫でていた。

思えば、琴子は今日オレがここへ来ようと誘った理由を一切聞こうとしなかった。
本当なら、オレから琴子を誘うことなど無いのだから、その理由をしつこいほどに聞いても
不思議はないのに、今日の琴子は、ただ碧潭へ行けるとはしゃいでいるだけだったのだから・・・

―オレ達、もしかしたら同じことを考えていたのかもな・・・

琴子は、対岸の景色を見つめたまま、さらに言葉を続けた。
「ここにはたくさんの思い出があるよね・・・入江君は、ここで初めてデートした時のこと覚え
てる?ちょうどこの桟橋から水の中に落ちちゃってずぶ濡れになったよね・・・結婚式をした
ときもそうだったよね・・・どしゃ降りの中で誓いのキスをして・・・やっぱりずぶ濡れになっち
ゃったけど、私本当に幸せだった・・・」

そこまで言って、琴子は急に声を詰まらせると、オレの胸に顔を押し付けてしばらくじっとし
ていた。オレは、ただ琴子の髪を撫でながら、そっとその肩を抱きしめていた。

「私ね、あの日・・・家出をしたあの日、一番最初にここへ来たの・・・」
やっと顔を上げた琴子が、オレの顔を見上げながらそう言った。



「ああ、知ってるよ・・・オレも一番最初にここへお前を探しに来たんだ」
オレは、微笑みながらそう答えた。

「ホント?・・・」
琴子は、大きな瞳に涙をいっぱいにためて聞き返した。

「ああ、本当だよ・・・周先生にお前の検査結果を聞いて、お前がどうして出ていったのかが
わかって、お前を探し始めた時、まず最初に浮かんだのがここだった・・・」


あの日の朝、あのメモを見つけたときに感じた言い知れぬ不安は、今でもオレの心に深く刻
まれている。
「あなたの重荷にはなりたくない・・・」
この言葉に込められた意味の重さには、計り知れないものがあった。
それまで、なにがあってもオレのそばにいた琴子が、そんなメモひとつでオレの前から消え
る理由など見当もつかなった。

しかし、周医師の話を聞いた時、疲れているせいだろうと思っていたその数日の琴子の憂鬱
そうな顔と、不可解な失踪の理由がオレの心にストンと落ちて、一瞬で全てを理解していた。
失明への恐怖、遺伝への不安・・・そして、何よりもオレへの想い・・・
全てがわかった時、オレは自然とこの碧潭へと足を向けていた。
そして、ボート乗り場の係員から、少し前まで琴子がそこいたことを確認した時、オレは、琴
子が本気でオレから離れようとしていることを悟って愕然とした。
絶対にそんなことが、出きるはずはないのに・・・

「私ね、ここへ来て、ここであったいろいろなことを思い出しながら、あの頃へ戻りたいって思
ったの・・・ただ私が一方的に入江君を好きで、毎日入江君の顔が見られればそれで幸せだ
った頃に戻れば、私自身が入江君の負担になったりすることはないでしょう?・・・あの時、私
はここでそんなことを考えていたの・・・」

オレには、その時の琴子の気持ちが手に取るようにわかった。
そして、あの時同じように琴子の気持ちを思いながら、追いつけない焦燥感と、じわじわと忍
び寄る喪失感に、胸が張り裂けそうだったオレの気持ちも・・・



「今は、そんなこと思っていないんだろう?」
オレは、琴子の顔を覗き込んで、確認するようにたずねた。

「うん。今はそんなこと思ってない・・・だから、ここへ来たかったの・・・入江君と二人でね・・・
こんなに大切な思い出の場所を、あの時のまま胸に留めておきたくなかったから・・・」
琴子の顔に、やっと笑顔が浮かんだ。

オレは、そんな琴子の頬に零れた涙をそっと拭いながら、「オレもだよ」とひとことつぶやいた。
そして嬉しそうにオレの胸に顔を押し付けている琴子に、オレは言った。
「それなら、他にも行きたいところがあるんじゃないのか?・・・」

「えっ?・・・他にもって?・・・もしかして・・・」
琴子が、驚いて顔をあげたところへ、素早くキスをしてオレは言葉を続けた。

「お前にとって、初めてのいろいろな場所さ・・・」
オレの言葉に、琴子の顔が驚きの表情に変わる・・・

「入江君は、私があの後どこへ行ったか知っているの?」
琴子が不思議そうに聞くのに、オレは「さあな・・・」と答えると、琴子の手を掴んで元来た道を
歩き始めた。


そんな時だった・・・
さっき桟橋の途中で、琴子がみつけて不思議そうに眺めていた車椅子が、ボートに横付けさ
れいるのが見えた。
そして、ボートから降りてきた男性が、相手の女性を抱き上げてその赤い車椅子に乗せてい
る場面を目の前にして、オレと琴子は、立ち止まってその光景を眺めていた。

琴子が、一瞬オレの手を強く握る・・・
たとえ片方にハンディキャップがあったとしても、幸せそうにしている二人の姿に、その時琴子
が自分達の未来を投影していることは明かだった。

「ね、ねえ、入江君?・・・もし私の目が・・・」
「もし、お前の目が見えなくなって、それでもここでボートに乗りたくなったら、オレもちゃんと
お前を抱いてボートに乗せてやるよ・・・」
オレは、琴子が聞きたいことを言い終わる前に、その言葉を遮って答えを返していた。

放心したような顔でオレを見上げる琴子に、オレは「行くぞ・・・」と言って歩き始めた。
照れくさくて、まともに琴子の顔が見られなかった。

「入江君・・・ホント?・・・」
立ち止まったままの琴子が、オレの背中にたずねる。

「ああ・・・でもな、絶対にそんなことにはならないから安心しろ!・・・ほら、早く来いよ」
オレは、振り返って琴子に手を差し出した。
琴子が、満面の笑みで歩いてくる。

琴子の目の病気が、現在の医学では治療が困難だという事実がある以上、琴子の心から
完全に失明への不安を取り除いてやることは、不可能だ・・・
だからこそ、オレはあの日から、琴子への想いを必ず言葉にして伝えるようにしてきた。
せめて、琴子がオレからの愛情にだけは、いつでも自信を持っていられるように・・・


「ねえ、入江君?・・・本当に私の行きたいところに行ってもいいの?・・・」
琴子が、再びオレの手を握りながら聞いてきた。

オレは、琴子の手を握り返しながら、微笑みを浮かべて何も言わずに頷いた・・・


                                         つづく


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