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 愛された軌跡 −Final−

オレと琴子は、初めてキスをしたあのトンネルの入り口に立っていた。
康南(斗南)高校からここへ来るまでの間、琴子はほとんど口をきかず、オレ達は、時おり穏
やかな微笑みを交わしながら、それでも、繋いだ手だけはしっかりと握りしめていた。

「入江君・・・ごめんね」
なんの前ぶれもなく、ポツリと琴子が言った。

「どうした?・・・」
オレは、少し驚いて琴子の顔を見た。

「今朝の手紙のこと・・・裕樹君でさえ、ちゃんとわかっていることなのに、張本人の私がそんな
ことすっかり忘れてひどいことしちゃった・・・朝、入江君が”すごく罪なことしたのわかってるか”
って言ったのはそのことだったのね?」
琴子は、前を向いたままそう言うと、何も答えないオレにゆっくりと顔を向けた。

オレは、答えに詰まっていた。
琴子を安心させる言葉を言ってやることは簡単だ・・・でも、今日こうしてあの日を辿ろうと思っ
た理由は何だったのかという思いが、心に渦を巻いてオレを黙らせていた。

「入江君?・・・」
痺れをきらした琴子が、不安気な顔でオレを見上げる。
オレは、そんな琴子を見下ろしながら、何も言わずに微笑むと、その手を離してひとりでトン
ネルの中に入っていった。

「ここだったよな?・・・」
オレは、冷たい石の壁に手を当てながら、入り口に立ったままの琴子に向かって言った。
そこは、オレがその壁に琴子を押し付けて、初めてのキスをしたまさにその場所・・・
琴子は、何も言わずに小さく頷いて、半信半疑な表情を浮かべたままオレの次の言葉を待っ
ているようだった。

「あの時、お前に子供の頃の写真を暴露されて、オレは生まれて初めて屈辱をいうものを味
わったんだ・・・」
オレは、目を閉じてあの時の光景を思い出しながら言った・・・そっと琴子の顔を盗み見ると、
琴子は今にも泣きそうな顔をして、うつむいている。

「でも・・・」オレがそう言って一度言葉を切ると、琴子は顔を上げてその先を促すようにオレの
目をじっと見つめた。

「でも、それならばどうしてあの時オレはお前にあんなことをしたんだろうな?・・・」
オレは、口元に笑みを作りながら琴子の瞳を覗き込むようにして言った。
オレの脳裏に、そしてきっと琴子の脳裏にもあの時の、まるで制裁のようなキスの場面が浮
かんでいた。

オレは、琴子に向かって手を差し出して、こちらへ来るように促した。
そして、琴子がほんの少し躊躇したあと伸ばした手を、オレはそっと掴んで自分の前に引き
寄せた。
琴子は、答えを考えあぐねて、戸惑った顔のままオレを見上げていた。

「本当に、あの頃のオレは何もわかってなかったんだよな・・・」
オレは、天井を仰ぐと琴子にというよりは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

混沌としていたあの頃から今へと続くオレの道のりには、必ず隣に琴子がいた。
それは、ひるむことなく、ただひたすらにオレを好きという気持ちひとつで・・・
そして、オレはいつの間にか琴子を愛し、オレにとってなくてはならない存在になった。
その琴子が、自らの意思でオレから離れていくことなど、絶対にないと思っていた。

「私ね・・・」

黙ってしまったオレの様子を伺いながら、琴子が話し始めた。

「私、家出をしたあの日、最後にここへ来て、街で夜を過ごして、そのあとトヨおばあちゃんの
ところへ行ったの・・・ここにいる時は、入江君を不幸にしたくない、私なんていない方がいいっ
て思いながら、本当は入江君に会いたくて会いたくて、結局は何の決心も出来ないまま、ず
っと泣いてるだけだった・・・」



「オレは・・・」
潤んだ瞳で見上げる琴子を、オレはそっと抱きしめた。

「オレは、お前と出会って変わったよな?・・・お前が気になりだしてから、たくさんの感情を知
ったよ。喜びや怒り、心から笑うことも、会えない寂しさとか、嫉妬もだよな・・・それでも、まだ
知らなかった感情があったことを、お前がいなくなったあの日、まざまざと知らされたんだ・・・」

「知らなかった感情?・・・」
琴子がそう言って、顔を上げようとするのを止めて、オレはさらに強く抱きしめた。

あの時まで知らなかった感情・・・
それは、身を切られるほどの後悔。

しっかりと握っていたはずの心が、指の間からこぼれ落ちていく。
慟哭の底から込み上げる嗚咽が、石の壁の中にこだまする。
血が滲むほど壁を叩いても、声が枯れるほど叫んでも、消すことが出来ない哀しい予感。

琴子の苦しみに気付いてやれなかったことが悔しくて・・・
琴子が、オレに何も言ってくれなかったことが悔しくて・・・
いつもそばにいたのに、あんなにも愛し合っていたはずなのに・・・

琴子が、徐々に追い詰められながら、オレと離れようと決心した時間を思って、胸が痛んだ。
十分に伝わっていると信じていた思いが、粉々に砕け散る音が聞こえた。

何が足りなかったんだ?
何度も自分に問いかけた。
あれ程オレに依存していた琴子が、こんなにも大事なことをオレに打ち明けなかった理由を
懸命に探していた。



すべてはオレのため・・・そんなことはわかりきっている。
じゃあ、オレのこの想いはどうなる?

「オレは、言葉が足りなかったんだよな・・・あの時、オレはお前の苦しい気持ちを、見過ごし
てしまったことを悔やみながら気付いたんだ。まだお前に伝えていない言葉があるってこと
に・・・」
オレは、抱きしめた琴子の髪を撫でながらつぶやいた。

「伝えていない言葉?・・・」
琴子が、顔を上げて聞く。

「ああ、そうだよ・・・あの時は、まだお前に一度も言ったことがなかった言葉さ・・・」
オレは、琴子を見下ろして微笑みながら答えた。

オレから離れることは許さないと・・・
どんなことがあっても、オレが守ると・・・
いつでも一緒にいたいと思っているのは、オレも同じだと・・・
琴子なしでは、生きられないと・・・

そして、心から・・・心から愛していると伝えるために、オレは必死で琴子を探した。
いつも心の片隅で自分の想いの方が強いと思っている琴子に、本当はどれ程オレに愛さ
れているかをわからせるために・・・

本当は、もっと早くに言うべきだったんだ。
思いを言葉で伝えることの大切さを、オレはあの時あらためて思い知らされていた。
琴子が、オレの愛を心底信じられていたら、こんなことは起きなかったに違いないと思った
から・・・

「私ね、あの時入江君は、きっと私を探してくれているって思ってた・・・結局、私は弱虫で、
やっぱり入江君に会いたくて、でも自分では帰れなくて・・・だから、無意識の内に見つけて
欲しいって思いながら病院のオフィスへ行ったんだと思うの・・・」
琴子は、オレの胸に頬を押し付けたまま、少し声を詰まらせながら言った。

「それで良かったんだよ・・・お前が、オレから離れられるわけがないだろ?」
「うん・・・」

―そうか・・・

その時、オレは今日どうしてあの日のオレ達の軌跡を辿りたいと思ったのかが、わかった
ような気がしていた。
決してあの日のことを、忘れたいわけじゃない、あの日気付けたことがあったから、オレ達
の今があるんだから・・・
そして、今日ここへ来て、あの日の出来事がオレと琴子の中で初めてひとつに繋がり、二
人の想いが重なって、やっとあの日の記憶が思い出になったと感じていた。

もう二度と同じことは起こらない・・・
オレは、決して琴子を見失ったりしない・・・琴子を離さない・・・

オレは、琴子を石の壁に寄りかからせてから、唇を寄せていった。
すると、琴子は寸前のところで、顔を横に逸らせた。
意外なことが起こって、オレが面食らっていると、琴子は上目がちにオレを見上げて言った。
「ねえ・・・あの時はまだ伝えてなかった言葉を、今ここで聞かせて・・・」

「えっ?・・・それは、もうあの時に言っただろ・・・」
オレは、そう言い返した瞬間、有無を言わさず琴子を壁に押し付けて唇を重ねた。
それは、まるで初めてのキスの再現のように・・・
ただ、あの時と違っていたのは、琴子の腕がオレの首に巻きついたことと、オレが琴子の
背中を抱きしめたこと・・・

体を離すと、琴子はすねた表情を浮かべてオレを見上げた。

―『愛してる』なんて、そんな簡単に言えるかよ・・・

オレは、そ知らぬ顔で、琴子から視線を逸らせた。


琴子が石の壁に指をつけながら、ゆっくりと端まで歩いていく・・・
オレは、その後姿を見つめながら、初めてキスをした時のことを考えていた。



あの時、怒りに任せて押し付けた唇の感触を今でもはっきりと覚えている。
オレは、写真を暴露されたことよりも、オレを忘れてやると言った琴子の言葉に、生まれて

初めて我を忘れるほどの激情に駆られたんだ。
そして、気づいた時には琴子の唇に・・・

オレは、深いため息をついて、トンネルの端でこちらを振り向いた琴子へと視線を投げた。

―どう考えても、あの時から好きだったよな・・・

「あっ!」
琴子が、ふいにトンネルの中に響き渡るような声をあげた。

「どうした?」
オレは、琴子に向かって歩き出しながら聞いた。

「赤ちゃんが動いた!・・・最近、本当にはっきりわかるように動くんだよ・・・」
琴子が、嬉しそうにお腹のあたりを手で撫でているのを見ながら、オレは胸の奥から熱いも
のが込み上げるのを感じていた。

琴子が母親になる・・・
オレの子供を産む・・・
オレと琴子の愛が混ざり合った、確かな証しが今琴子の中で生きている・・・

たくさんの苦しみを乗り越えてきたからこそ、その笑顔があるのなら・・・本当は、今でも心
の奥に抱えた恐れに、何も言わずに耐えている琴子だから・・・こんな時こそ、オレは何か
を捧げずにはいられない・・・

「なあ琴子?あの卒業式の日、お前はここでオレを忘れてやるって言ったんだ・・・覚えて
るか?」
オレの言葉に、少し照れた顔をして琴子が頷く。

「あの時のキスは、お前に生まれて初めて与えられた屈辱への仕返しじゃなく、オレを忘れ
させないためのキスだったって気付いてたか?」

「えっ?・・・」
琴子が驚いた顔をしてオレを見る。

「どういう意味かわかるか?・・・」
オレは、琴子の前に立つと、両の頬を手のひらで包みながら言った。
琴子は、何も言わずに、じっとオレを見つめている・・・

「あの時から、お前が好きだったってことだよ・・・ずっと好きだった・・・」
「ずっと?・・・」
「ああ・・・」
「ホントに?・・・」
「本当さ・・・」
オレは、みるみると涙の浮かぶ琴子の瞳を見つめながら、もう一度唇を重ねた・・・

言わずにはいられなかった・・・ずっとオレだけを想って、これからもきっと想い続けていく琴
子に、あの時の素直になれなかったオレの本当の心を・・・

「入江君?今日はありがとう・・・私、今日ここへ来られて本当に良かった」
琴子が、オレの胸に頭を預けたまま、潤んだ声でつぶやく・・・

「オレも、そう思うよ・・・」
オレは、琴子の髪を撫でながら答えた。

今日のこの日は、あの日の軌跡をなぞりながら、本当はオレ達の出会いからの軌跡をなぞ
る旅だったのだとふと感じた・・・

琴子が失踪したあの日の記憶と一緒に、たくさんの思い出がオレ達の中に蘇った。
その全てが、オレが琴子に愛された軌跡・・・
そして、オレが琴子を愛してきた軌跡なのだと・・・


「さあ、帰ろうか・・・疲れただろう?」
オレは、琴子の肩を抱きながら聞いた。

「疲れてなんかいないよ・・・でも、きっとお義母さんが心配してるね・・・」
琴子は、とても穏やかな微笑みをオレに向けて答えた。

トンネルから外へ出ると、まだ十分に高さのある太陽が、オレ達を見下ろしていた・・・
「なんだか、お腹すいちゃった・・・」
琴子が、膨らんだお腹をさすりながらつぶやく・・・

「昼食べてから、そんなに時間たってないぞ・・・」
オレは、呆れた声で答える。

「だって、最近ホントにすぐお腹がすくんだもん」
琴子が口を尖らせながらオレを見る。

「医者としては、妊婦には特に規則正しい食生活を送ってもらいたいところだけどな・・・」
オレは、ニヤリとしながらつぶやく。
琴子は、オレの顔を見上げながら「ええ〜」と不満気な声をあげる。

「わかったよ、ちょっとだけ何か食って帰ろう・・・」
「わーい・・・何食べる?・・・そうだ、お父さんのお店に行こうよ」
「バカ!幸福小館なんかいったら、お前やまほど食うだろ?」
「そんなことないよ・・・お粥!お粥にしてもらうから〜〜ねっ?」

オレ達は、他愛のないじゃれあいをしながら家路についた・・・
今朝の琴子の手紙がもたらした”あの日”への小さな旅は、あの日の苦しみを浄化して、今さ
え飛び越えてオレ達の未来まで照らす光を見せてくれた・・・


―琴子、愛してるよ・・・出逢った頃からずっと、そしてこれから先もこの命ある限りずっとずっと・・・


                                              END



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