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 天使、舞い降りる・・・

<まえがき>
2吻最終回の一番最後は2人で仲良く琴子の妊娠検査に行くところで終わっていますね・・・
このお話は、そのラストシーンのさらにその後を描いた物語です。


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「入江琴子さん、診察室へお入りください・・・」
目の前のドアが開き、待合室をぐるりと見回して、ナースが事務的に琴子の名前を呼んだ。
しかし、琴子はうつむいたまま両手の握りこぶしを膝の上に置いて動かない・・・
ここへ来るまでの間は、あんなにはしゃいでいたのに、今産婦人科の待合室に座っている琴
子は、すっかり大人しくなってしまっている。
オフクロに無理やり持たされたビデオも、スイッチも切られたまま、所在無げに傍らに転がさ
れていた。

「琴子?・・・呼ばれたぞ。」
オレは、琴子の顔を覗き込みながら耳元で囁いた。

「うん・・・聞こえた」
琴子は蚊の泣くような声で答えると、ゆっくりと顔を上げてオレを見た。

「大丈夫か?・・・」
オレは、琴子の硬く握られた拳にそっと手のひらを乗せながらたずねた。
微かに震えているその拳をオレの手がそっと包むと、まるでそれを待っていたかのように、開
かれた手のひらがオレの手を握り返してきた。

「だ、大丈夫・・・かな?・・・」
何とも、不安気な笑みを浮かべて、琴子が首を傾げる。

「さっき、思いっきり”運”を付けて来たんだから、そんな不安そうな顔するな・・・」
オレは、からかい半分に琴子に言った。

琴子は、その言葉で少しは緊張が解けたのか、「もう〜」と言って、口を尖らせながら、それで
も何とか笑みを浮かべてオレを見た。

「入江君、ひとつ聞いていい?・・・」
琴子が、オレの手を握ったままゆっくりと立ち上がりながら、聞いた。

「何?・・・」
オレは、琴子のもう片方の手も握って引き寄せながら、聞き返した。

「ここに・・・私達の天使がいた方がいい?それともいない方がいい?」
琴子は、自分のお腹を指差しながら聞いた。

「天使?」

「うん、私達の赤ちゃん・・・きっと天使みたいだろうと思って・・・」
琴子は、はにかんだようにそう言いながらも、オレのどんな小さな表情の変化も見逃すまいと
するように、オレの目を真っ直ぐに見ながら答えを待っている。

―何てこと聞くんだ・・・バカ!

オレは、心の中で悪態を付きながら、大きく息を吸い込んでから、前に立つ琴子を見上げた。

「どっちだっていいさ・・・」
オレは、あえて素っ気なく答えた。

「えっ?・・・」
琴子は、まるで言葉の意味が理解できていないかのように、呆けた顔でオレを見下ろしている。

「でも、たとえ今回妊娠していなかったとしても、これから先の未来で、もしオレに子供ができる
なら、その子供を産んで欲しいのはお前だけなんだってことだけは覚えておけよ・・・」
オレは、診察室のドアへ視線を投げながら、「ほら、早く行けよ・・・」と、琴子を促した。
琴子は、微かな笑みを浮かべて小さく頷くと、もう一度オレの手を強く握ってから、ひとり診察
室へ入っていった。

オレは、産婦人科の待合室のベンチに座ったまま、大きく息を吐き出した。
どれ程、安心させるための言葉を口にしても、今の琴子の胸の中に渦巻く不安を取り除いて
やることは出来ない・・・
それならば、せめてどんな状況になろうとも、必ず受け止めてやると伝え続ける方がいいの
だとオレは思っていた。
正直に言えば、琴子がオレに聞いたことは、オレの中の迷いでもある。
妊娠することで、琴子の心の負担が増すのであれば、それは決して手放しで喜べることでは
ないようにも思える。
そして、もし今回の琴子の妊娠が、また間違いであったなら、生涯子供を持たないということ
も選択肢の一つに加えなければならないだろう・・・

しかし・・・

琴子は、まず十中八九妊娠しているとオレは確信していた。
そして、琴子の体にオレ達の天使が舞い降りたのは、間違いなく琴子の誕生日の夜・・・
あの時は、まさかこんなことになるとは思いもせずに、オレは琴子の体のサイクルも十分に
わかった上で琴子を抱いた。
あの日、出逢った頃から胸に秘めていたたくさんの想いを全て琴子に捧げた時、とても素直
に子供が欲しいという思いが心に芽生えた。
琴子が、オレの子供を産むと考えただけで胸の奥から熱いものが込み上げて来るような気
がした。

しかし、運命というものは皮肉なもので、オレの想いが叶ったと思った時と、琴子が絶望の淵
に落とされる時が同時に訪れるとは・・・

「運命か・・・」
オレは、思わず小さくつぶやいた・・・

運命なんて言葉を、オレはずっと信じていなかった・・・そう、琴子に出逢うまでは・・・
でも、たくさんの偶然にみせかけた必然が、オレ達を導いた。
そして、オレはいつの間にか、運命を信じるようになっていた。

そして今また、不思議な運命のいたずらで、オレ達の至福と絶望が目の前で交錯している。
だからこそ、オレはもっともっと強くならなければならないと、心に誓った。

オレは、今さらながら医者になって本当に良かったと思っていた。
琴子に出逢っていなければ、まず間違いなく選ぶことはなかった道・・・
小さい頃から天才ともてはやされ、何でもわかってしまうから、何に対しても無関心だったオ

レが、初めて関心を持って、心から進みたいと思った道・・・
その道が、今のオレを支えている・・・そして、琴子を支えるためのオレの力になっている。

―もしかしたら・・・

オレは、ふと思った。
天才に生まれてきたことすら、今この時のための必然だったのかもしれないと・・・

<オレは、琴子に出逢うために、天才に生まれてきた。>

まるで人生の方程式のような言葉が頭に浮かんだ。
オレが、成績優秀者として高校の入学式で壇上に立たなければ、琴子がオレにひとめ惚れ
することもなかった。
琴子が、オレを見初めて大胆にもラブレターを渡そうなどとしなければ、オヤジ達の友情だ
けでは、オレと琴子が愛し合うこともなかったに違いない・・・

思わず笑いが込み上げた・・・

なんだか、ほんのわずかに心に残っていた不安さえも、この瞬間に消えていった気がした。
今まで生きてきた全ての出来事が、ただ一点・・・琴子に向かって伸びていたのだと今さらな
がらに納得していた。
素直になれずに紆余曲折を経てきたのは、より強く琴子を愛するためのスパイスだったの
だとさえ、思える自分が不思議だった。

琴子と出逢わなければ、オレの人生は、きっと何の障害もない真っ直ぐな道が続いていた
のだろうと思える・・・それは、金にも困らず、何の不自由もない人生。
大方の人が”幸せ”と思うであろうその人生は、きっとオレにとっては、味も素っ気もない退
屈なものだったに違いない。

琴子に照らされて初めて輝いたオレの人生だから、その光を絶やさないためならオレはこ
の人生の全てを賭けることも厭わないと思っていた。


「入江君・・・?」
オレは、そこが産婦人科の待合室だということも忘れて深く考え込んでいたらしい・・・
琴子が、診察室の中からドアを細く開けて、オレを呼んでいるのが聞こえて、思わず我に返
った。

「どうした?」
オレは、手招きしている琴子を見て、腰を浮かせながら聞いた。

「結果・・・一緒に聞いて欲しいんだけど・・・」
琴子が、不安そうな顔をして言うのを見て、オレは大きく頷いて一緒に診察室の中へ入って
いった。

「あ、あの・・・ビデオ回してもいいですか?」
琴子が唐突に産科の医師に聞く。

「お、おい!」
オレが、驚いて止めようとするのを、産科の医師は笑顔で制して、「いいですよ」と答えた。

「さて、では結果が出ましたので、お知らせしましょうか・・・」
医師の言葉に、ふと隣の琴子を見ると、ビデオカメラを持つ手が震えている。
このままでは、オフクロが楽しみにしている決定的な場面はひどい手振れの映像で観ること
になりそうだ・・・オレは苦笑しながら、琴子からそっとカメラを取り上げると、膝の上において
レンズを上に向けた。

「入江琴子さん、おめでとうございます。間違いなく妊娠されていますよ・・・今ちょうど三ヵ月
に入ったところです。赤ちゃんがあなたのお腹にしっかりしがみつくまでには、まだ少し時間が
かかります。流産の危険性もまだありますから、しばらくは無理はせず安静に過ごされた方
がいいですね・・・まあ、ご主人がここの第3外科の入江先生ですから心配はないでしょうが」
顔なじみの産科の医師は、オレを見て微笑むと、琴子に向かって「何か質問はありますか?」
と聞いた。

すると、琴子はしばらく考えてから、「いいえ、何を聞いたらいいかもわからないので・・・」と答
えてオレの方を見た。

その時オレは、膝に置かれたビデオカメラの、角度を変えた液晶画面に見入っていた・・・
医師に妊娠を告げられた瞬間の琴子の表情が、ビデオと一緒にオレの心に焼きついた。
琴子は、その大きな瞳をさらに大きく見開いたあと、微かに・・・本当に微かに微笑んでから目
を閉じると腹部に手を当てて「ありがとう」と小さくつぶやいた・・・

大声で喜ぶのか、泣き出すのか、その瞬間の琴子をあれこれ想像していたものの全てに当
てはまらないその表情・・・
透きとおるように綺麗で、慈愛に満ちていて、不思議ととても落ち着いているように見えた。

そして、今の琴子は、オレに何か言って欲しそうに涙の浮かんできた瞳でこちらを見ている。
オレは、琴子が泣き出す前に産科の医師に挨拶をして診察室を出ると、そのままエレベータ
ーに乗って、オレのオフィスへ向かった。


「おめでとう・・・これでお前もママだな・・・」
オレは、琴子の頭を撫でながら言った。

「う、うん、そうだね・・・なんだか全然実感がわかないけど、私、入江君の赤ちゃんを産むん
だよね・・・入江君もパパになるんだね・・・」
琴子は、うわずった声でそう言うと、突然堰を切ったように泣き出した。

オレは、琴子を抱きしめてその背中を撫でながら、あらためて覚悟を決めていた。
もしかしたら、オレ達はとてつもなく大きなものを背負ったのかもしれない・・・
それでも、それは決してオレ達を不幸にするものではないんだ・・・
そして、妊娠を知った瞬間に琴子が言った言葉が「ありがとう」だったように、新たな命の誕生
に精一杯の感謝とありったけの愛情を込めて、オレは琴子のお腹の子供も一緒にこの腕の中
に抱きしめている気持ちになっていた。

オレは、琴子から離れるとその顔を見つめて、あとからあとから溢れてくる涙を指で拭ってや
った。
「わかったから、もう泣き止めよ・・・これから、まだ家に帰って報告をするっていう大仕事が残
ってるの忘れたのか・・・」
オレは、家の前に掲げられた真っ赤な横断幕や、ドアを開けたとたんに鳴り響くクラッカーの
音を想像するだけで、うんざりとした気持ちになっていた。

「やっと、お義母さんを喜ばせてあげられるね・・・」
琴子は、まだ少ししゃくりあげながら答えた。

「ああ、そうだな・・・」

「ねえ、入江君?・・・私本当はすごく恐かっ・・・」

オレは、琴子の唇に人差し指をあてて言葉の先を遮ると、たった今琴子の唇に浮かびかけた
不安を吸い取るようにキスをした。

「何も心配しなくていい・・・何があってもオレがいる。オレが守る・・・だから、安心して元気な
子供を産んでくれ・・・」
オレの言葉に、琴子が再び目を潤ませながら頷く・・・抱きしめたら、また泣き出しそうな気がし
て、オレは琴子の肩に手を回した。

今頃、きっとオフクロもオヤジもお義父さんも、家の中をそわそわと歩き回りながら、オレ達が
運ぶ幸せの報告を待っているのだろう・・・

「さあ、帰ろうか・・・」
「うん、早くお義母さんの顔が見たい・・・」
「今までで一番の歓迎ぶりになってるぞ、きっと・・・やれやれだな・・・」
「あっ、ビデオ全然撮ってないよーーどうしよう、入江君・・・」
「そんなの、しらねーよ」

「だって、お義母さん楽しみにしてるのに・・・」
琴子がみるみるうちにしょんぼりと、うつむく・・・
どうやら琴子は、あの時オレがビデオを撮っていたことに気付いていなかったようだ。
ふと、家で妊娠告知のシーンを見ながら、抱き合って泣く琴子とオフクロの姿を思い浮かんで、
オレは、思わず口に手をあてて笑いを噛み殺した。

―本当なら、オレの心にだけ刻みつけておきたいのに・・・

それでもオレは、寛大な心で、あの感動と幸せをくれた瞬間を、みんなにも分けてやろうと思
っていた・・・

今、隣で幸せそうに微笑む琴子を、心から愛して止まない優しい家族のために・・・


                                                 END


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