≪Menu
 琴子の努力・・・

オレは、明日提出することになっているレポートを書き上げて、ふとデスクの時計を見た。
あれからもう1時間以上経っているのに、琴子は部屋へ戻ってこない・・・

―琴子・・・まだ練習をしているのか?・・・

『タオル相手ならバッチリなのに、本物の腕を前にすると、針を刺したら血があふれちゃ
いそうで恐い・・・』
琴子のボヤキが、ふと蘇って思わず笑いが込み上げる。
オレは、ため息をひとつ付いてから立ち上がると、音を立てないように階段を降りてダイ
ニングを覗いた。

すると、琴子は駆血帯を握りしめたまま、テーブルに伏せて静かな寝息をたてていた。

「琴子?・・・琴子、ちゃんとベッドで寝ろよ」
オレは、琴子の肩を叩きながらその耳元に囁いた。

「う〜ん・・・針が・・・恐いよ〜タオルなら・・できるのに・・・むにゃむにゃ・・・」

琴子は、どうやら夢の中でも注射器と格闘しているらしい・・・
オレは、琴子を起こすのをあきらめて、力の抜けた体をそっと抱き上げた。
部屋へ戻って、ベッドの上に琴子を寝かすと、顔にかかった髪をよけてやる。


『あんた、琴子がどうして頑張るかわかってるのか!』
不意に昼間、啓太が噛み付かんばかりの勢いでオレに言おうとした言葉が蘇る。

―ふん、そんなこと言われなくたって、わかってるさ。

だからと言って、オレにどうしろというんだ・・・
結局は、琴子が努力をする以外に方法はないのだから・・・

『悠長なもんだな・・・俺は奥さんの練習台さ・・・』

あいつは、誰もが尻ごみする琴子の注射の相手を自ら買って出たのか?・・・
それは、やっぱり琴子が好きだからできたことなのか?・・・
それでも、あいつは琴子を諦める決心をしたのか?・・・

オレは、思わず胸に込み上げてくる、やっかいな感情を無理やり押し込めながら、眠っ
ている琴子の肩に手を回して抱き寄せた。

啓太の言葉に惑わされることはない。
琴子が頑張る理由はただひとつだ。
オレのため、オレと一緒にいるため・・・

―それなら、オレもお前のために何かしなければいけないよな・・・

琴子に注射される痛みを知っておくのも夫の役目かもしれないと思うと、苦笑いが込み
上げてくる。
それでも、琴子が決して諦めたりはしないことも、オレは知っている。
もう、琴子の努力を、背中から見つめているのはおしまいだ・・・

明日は休日・・・

琴子の持った注射器が、自分の腕に刺さるところを想像して、思わず身震いする。
オレは、琴子の頭を乗せている自分の腕を見つめて、大きなため息をひとつつくと、その
まま琴子を抱きしめて目を閉じた。



                                          END


Menu