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 琴子の咲かせる花

それは陽もすっかり落ちた頃のこと・・・
大学の研究室を出たところで、携帯電話が鳴り出した。
着信画面を見ると、琴子からの電話・・・

オレは嫌な予感に一瞬出るのをためらいながら、それでも仕方なく着信ボタンを押した。
「もしもし?なんだよ・・・」いきなり鬱陶しげな声で話しかけると、思いもかけず相手は琴子
ではなかった。
「あっ、入江君?」
聞き覚えのある声に、何も答えずに首をかしげていると、相手が話を続けた。
「い、入江君、ごめんね、じんこです・・・これから理美の結婚式の二次会なんだけど、琴
子が酔いつぶれちゃって・・・私、幹事ですぐに行かなきゃならないの・・・琴子、ホテルの
ロビーに置いていくから、悪いけど迎えに来てもらえるかな?」

焦っているのか、やけに早口な言葉に思わず苦笑する。
オレは、送話口に向かって思い切りため息を付いてから「わかった、迎えに行くよ」と答え
て、電話を切った。

―まったく、懲りない奴・・・

オレは、携帯電話をポケットにしまうと、大学の門を出て、家とは逆の方向に歩き出した。

今日は、理美と良の結婚式。
オレも招待されていたが、教授との約束があったので、琴子がひとりで出席した。
結婚式だけで酔いつぶれてしまうほど飲んだということは、きっと何か仕出かしたに違い
ないと思いながら、オレは結婚式場になっているホテルへ急いだ。

ホテルの入口を入ると、すぐにロビーのソファに正体なく横たわる琴子を見つけた。



「またヘマしたか・・・」
眉間に皺を寄せ、腕を投げ出し、靴まで脱ぎ捨てて眠りこけている姿を見下ろして、オレ
は思わず声に出してつぶやいた。

オレは、琴子を無理やり起こすと、ろれつの回らない口でなにやら泣き言を言っている琴
子を背負って家に帰った。



その夜、オレは琴子が理美に謝る声で何度も起こされる羽目になった。
起こされるたびに眠る琴子を睨みつけながらも、夢の中でさえ必死に理美のことを心配
している琴子に、複雑な感情が込み上げる。
それは、オレにはどうしても理解できない女の友情とか、感動に似た胸のざわめきや、な
ぜか微かな切なさまでも入り混じっているように思えた。
結局オレは、何回か起こされた末に、とうとうベッドで寝ることをあきらめて、狭いソファで
体を縮めて眠った。

翌朝、オレは随分と早い時間に目覚めた。
瞼を開けた瞬間に見えた景色が、いつもと違うことに驚いて、すぐに自分がソファの上で
寝ていたことを思い出した。

琴子はどうしただろうと体を起こすと、昨夜の酔っ払いは、オレを締め出した広いベッドの
真ん中で気持ちよさそうに眠っていた。

―ふっ・・・幸せな奴・・・

オレは、ただ呆れるばかりで怒る気にもなれず、ソファに座ってしばらくぼんやりと琴子の
寝顔を眺めていた。

今日は休日・・・本当なら、もう少し寝ていたいところだが、オレは思い切って立ち上がると
手早く着替えて部屋を出た。
琴子を負ぶって歩いたことと、窮屈な姿勢で眠ったせいか、体のあちこちが痛む。
首や肩を回しながら、階段を降りていくと、淹れたてのコーヒーの香りが寝不足の頭をほ
んの少しだけすっきりとさせてくれるような気がした。

オレはゆっくりとオフクロの作った朝食を済ませると、リビングのソファに陣取って新聞を
読んでいた。
琴子は、まだ眠っているのか一向に降りてくる気配はない。
休日の朝は、時計の針がいつもよりゆっくりと進むようで、誰もがそれぞれの意識の中で
思い思いの時を過ごしていた。

ところが、そんな穏やかな静寂を破るように、玄関のチャイムが鳴り響いた。
オレは、少し顔をしかめながら、玄関へと走るオフクロを一瞥すると、すぐに新聞へ視線
を戻した。

来訪者を応対するオフクロの声が、微かに聞こえる。
少し興奮気味のその声に、また嫌な予感に見舞われた瞬間、オフクロがオレを呼ぶ声が
聞こえ、リビングの入口に顔を出したオフクロがニコニコしながら、オレに手招きをしている。
「お兄ちゃんにお客さんよ・・・」

―えっ?・・・オレに?

オフクロが、いやに嬉しそうにしているのを怪訝に思いながら、オレは玄関に顔を出した。
すると、そこには緊張した面持ちで、じんこが待っていた。

「い、入江君、おはよう・・・」
じんこは、引きつった笑顔を向けて言った。

「お、おはよう・・・でも、オレじゃなくて、琴子に用事だろ?」
オレは、相手がじんこだとわかったとたん、オフクロが言い間違えたのだろうと思い尋ねた。
ところが、じんこは首を横に振った。
「ち、違うの、本当に入江君に用事があって来たのよ・・・だって、琴子はどうせまだ寝てる
でしょう?」

「ああ・・・まあな」
さすがに長年の友達だと、オレは変なところに感心しながら答えた。

「まずは、これ渡しておくね・・・昨日琴子が持ってたバッグと結婚式の引き出物。あんなと
ころに置き去りにしちゃうから、私が預かってたの・・・」
じんこは、気恥ずかしそうな笑顔をオレに向けると、手に持っていた紙袋をオレの前に差し
出した。
オレは何も言わずにその袋を受け取った。

「あ、あの・・・入江君?昨日のこと、琴子から何か聞いた?」
渡された袋を覗き込んでいるオレに、じんこがおずおずと尋ねる。

「いや・・・あいつは、ホテルのロビーで見つけた時からずっと正体のないままだよ・・・」
オレは、じんこの探るような視線を横目で見ながら答えた。

「やっぱり・・・実は、今朝は結婚式でのことと、その後どうなったかを、入江君に話してお
いた方がいいような気がして来たの」

「オレに?・・・」

「ええ、なんだか琴子に感動しちゃったから・・・」
じんこは、少し照れたように笑いながらそういうと、昨日の結婚式での出来事を話はじめた。

良の側の来賓のスピーチで語られる理美の人となりが、あまりにも事実と違っていたこと。
それに怒った琴子が、酒の勢いも借りて、本当のことを暴露してしまったこと。
琴子のスピーチを止めようとする良の母親を見て、今度は理美が胸に積もり積もった不
満をぶちまけてしまったこと・・・

オレは、じんこの話を聞きながら、あまりにも琴子らしい出来事に、ただ苦笑いを浮かべ
なら、その場にいなくて良かったと、あらためて思っていた。

「それでね、その後の二次会で理美から頼まれた伝言があるの・・・」
伏せ目がちに昨日のことを話していたじんこが、不意に顔をあげてオレを見た。

「伝言?・・・」

じんこは、オレの言葉に頷くと、理美の言葉を思い出すように、時おり天井を見るような仕
草をしながら語った。
「うん、理美が言ったのよ・・・一生に一度の結婚式は、めちゃくちゃになっちゃったけど、
琴子のお陰で、本当のことを言う勇気が出た。あの後、部屋へ引き上げてしまったお義母
さんのところへ行ってずっと胸につかえていたことを話すことが出来た。お義母さんも、本
当の気持ちを話してくれた。琴子と入江君のお母さんのようにはまだまだなれないけど、
ちゃんと話すことが出来て、良だけでなくあのお義母さんとも一生付き合って行く決心が出
来た・・・ってね」

「そうか・・・」
オレは、ただひと言そういうと、ほっとした表情を浮かべているじんこに微笑んだ。

「理美には、琴子にって言われてたんだけど、私はなんだかこのことは入江君に伝えたい
なって思って・・・琴子ってドジで、考えなしだけど、不思議と回りの人を幸せにする力を持っ
てるだよね・・・もしかして、入江君も知ってた?」

「まあな・・」

「そう、それなら良かった。じゃあ、私の話はこれでおしまい・・・琴子は相変わらず入江君一
筋だし、理美も結婚しちゃって、私も将来についていろいろ考えなきゃ。じゃあ、これからデー
トだから、二日酔いの奥さんによろしく!」

オレは、片手をあげて玄関のドアを出て行くじんこを見送った。
振り向くと、リビングの入口から顔だけを出して、オフクロがニヤニヤと笑いながらオレを見
ている。
オレは、そんなオフクロを呆れ顔で一瞥してから、何も言わずに階段を上がって行った。

部屋に入ると、琴子は枕を抱きしめるようにして眠っていた。
オレは、ベッドの端に腰掛けると、静かな感動の中で、琴子の頬を指で撫でた。

『私の回りの人がみんな幸せだといいな・・・』
いつだったか、背中から腕を絡ませた琴子が、オレの耳元で囁いた言葉が蘇る。

琴子の無鉄砲な懸命さは、時として関わる者の心を大きく揺り動かす。
琴子の振りまく小さな幸せの種は、当の本人も気づかぬ内に、たくさんの人の中に色とりど
りの花を咲かせてきた・・・

オレは、穏やかな表情で眠っている琴子の眉間にそっと唇を押し当てた。
さらに、瞼へ、頬へ、鼻の頭へ・・・

オレは知っている。
琴子の願いのこもった小さな種から、一番大きな花を咲かせたのは、他の誰でもない、この
オレだということを・・・

―目が覚めたら、あれこれ文句を言ってやろうと思ってたのにな・・・

琴子は、心地よい眠りを邪魔されて、鬱陶しそうに首を振りながら、その瞼を開こうとしている。

―あんな話を聞かされたら、何もいえなくなるじゃないか・・・

オレは最後に、寝不足の仕返しのつもりで、その唇に息苦しくなるほどの長いキスをした。


琴子が目を覚ましたら、じんこから聞いた理美の伝言を、どんな風に話してやろうかと考え
ながら・・・


                                            END


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