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 ”琴子”という存在

「お兄ちゃん!」


ドアを勢いよく開けて、裕樹がオレと琴子の部屋に入ってきた。
裕樹がオレに何を言いに来たのかはわかっていたから、オレは裕樹に背中を向けたままパソ
コンから目を離さずに気のない返事を返した。
「なんだよ。ノックぐらいしてから入って来いよ・・・」

「お兄ちゃん!せっかく連絡してやったのに、なんで迎えに来なかったんだよ!」
裕樹は、オレの返答が素っ気なかったことに、ことさら怒りをあらわにして言った。

「誰も連絡してくれなんて頼んでないぜ・・・」
オレは、ようやく上半身だけで振り向くと、座ったまま裕樹の顔を見上げた。

「お、お兄ちゃん!!琴子は変な奴らに連れ去られるところだったんだよ!僕が、僕が見つけ
なかったらどうなってたかわかってんのかよ!・・・」
裕樹が、オレを責め立てる。

「ああ、あいつを助けてくれたことは感謝してるよ・・・それで?琴子を連れて帰ってきたのか?
お前一人みたいだな・・・琴子はどうしたんだ?」
オレは、本当は幸福小館まで行ったことなどはおくびにも出さずに、裕樹の背後に視線を投げ
ながら尋ねた。


「まったくあのバカ琴子は、せっかく助けてやったのに、まだ帰れないとかいいやがって、また
ひとりでどこかへ行っちゃったよ。ああーーもう!!・・・琴子はお兄ちゃんの奥さんだろ?どう
して迎えに行かないんだよ!心配じゃないのかよ!もう、僕だって探しに行かないからな」
裕樹は地団駄を踏むようにオレに食ってかかってくる。


「どうせ、お前に行き先を言って来ることになってんだろ?」
オレの言ったことは図星だったらしく、顔を真っ赤にした裕樹が返答に詰まっているのを見て、
オレは再びパソコンに向かった。

「どうしてそんなに冷静でいられるんだよ?もう琴子が帰ってこなくてもいいのかよ?もし琴子
の居場所がわかっても、絶対にお兄ちゃんには教えてやらないからな!自分で探せよな!!」
裕樹は、言うだけ言うとオレの返答も待たずに、ドアを激しく閉めて部屋を出て行った。

正直言って、裕樹から連絡が来た時はいても立ってもいられずに家を飛び出した。
幸福小館の前にいる二人を見つけたときは、ほっと胸を撫で下ろしもした。
しかし、裕樹と話している琴子の表情を見て、オレは琴子の決心を感じ取っていた・・・だから、
あえて声をかけずに戻ってきたんだ。
今の琴子には、オレや家族と離れて考える時間が必要だと・・・

翌日、珍しく早い時間に帰れたオレは、琴子が出て行って以来久しぶりに家族と一緒に夕飯
の食卓についた。

オフクロが差し出した茶碗を受け取って、食事を始めると、オレはすぐに違和感を感じてテー
ブルを囲む家族を見回した。
誰もが口を閉ざしたまま、もくもくと箸を口に運んでいる・・・
オヤジとオフクロと裕樹、そしてオレの四人で囲む食卓は、まるで琴子がこの家に来る前の食
卓そのものだ。

―いや、違う。

そう、これは大学に入ったばかりの頃、琴子とお義父さんがほんの一時だけこの家を出て行
ったときと同じ光景だと思いなおした。

オフクロの消沈ぶりが、オレにそんなことを思い出させたらしい。
オヤジが何か言いたげに、オレをチラチラと見ている。
裕樹が、あからさまにオレを睨みつける。
琴子がひとりいないだけで、この家の食卓からは笑い声はおろか、会話さえも消えてしまうの
だと思い知らされた気がした。

それでも、オレは淡々と食事を済ませると、何も言わずに自分の部屋へと引き上げた。

夜、風呂を済ませて部屋に戻ると、パソコンのキーボードの上に小さなメモが置いてあった。
見ると、裕樹の字で琴子が住み込みで働き始めた店の名前と場所が書かれていた。

―あいつが住み込みでアルバイト?・・・

琴子を雇った店主を気の毒に思いながら、奮闘する琴子を思い浮かべて笑いが込み上げる。
オレは、裕樹に感謝しながらそのメモを机の引き出しにしまうと、ベッドに寝転んだ。

部屋の明かりを消そうと、ベッドサイドのランプシェードに手を伸ばす。
琴子と結婚してからは、薄明かりの中で寝ることにすっかり慣らされてしまって、たとえ一人で
あっても部屋を暗くしない自分がおかしくなる。
一人で寝るには広すぎるベッドと、レースとフリルのついた枕に、いやが上にも琴子への思い
が募る。
頭ではわかっていても、オレのココロと体は、どうあがいても琴子を求めて止まない・・・

今この瞬間にも琴子を連れ戻しに行きたい衝動が胸の中にくすぶっているのを感じていた。

―それでもオレは行けない・・・まだ行けない。



それから数日して、オフクロがものすごい剣幕でオレの部屋へやってきた。
オレが迎えに行かないなら、自分が迎えに行くと訴えるオフクロをなんとかなだめる。

「今、オフクロが手を差しのべたら、あいつはこのまま成長できなくなるんだ」
「どうしてそんなに冷血動物みたいなこと言えるの?・・・ひどいわよ!」
捨て台詞を残して部屋を出て行くオフクロの背中を見送りながら、オレはふと思った。

―そろそろいいかな・・・

オレは、大きく開いた窓にもたれかかりながら、ココロの中でちいさくつぶやいた。

家を出て行ってからしばらくは、大学へ行けば、あちこちで琴子の気配を見つけた。
遠くからオレを見つめている琴子の視線を、何度も背中に感じ取っていた。
オレは、琴子がどんな顔をしているか確かめたくて、振り向きたい衝動をなんとか堪えながら
気付かない振りをしていた。

しかし、そんな琴子の気配をこの数日は感じていない・・・
琴子が大学に来ていないことは明かだった。
きっと、琴子は何かに気付いたに違いない・・・オレの、言ったことを理解して、あいつなりにこ
れからのことを考えているのだとオレは確信していた。

このままでは、オレより先にオフクロが琴子を連れて帰ってきてしまいそうだ。
裕樹はあれ以来、オレと口を利こうとしない。
オヤジは、ダイニングテーブルのいつも琴子が座っている椅子を見てはため息を付いている。
お義父さんは、顔を合わせればいつも済まなさそうな目でオレを見る。

そして何よりも、こんなに長い間離ればなれになって、琴子はどれ程オレに会いたがっている
だろう・・・

―もう限界だな・・・

ふと、ココロに浮かんだ言葉に苦笑いが込み上げる。
本当に限界なのは、オレ自身なんだと気付く・・・

誰のせいでもない、誰かのためでもない。
オレが、琴子のいない日々に我慢できなくなっているんだ。

オレは、机の引き出しを開けると、裕樹が置いていったメモを取り出してポケットにねじ込んだ。

開け放した窓から吹き込む風が、カーテンを大きく揺らしながらオレの背中を押している。
オレを見つけたときの、琴子の喜ぶ顔を思い浮かべると自然と顔がほころぶのを感じる。
オレは、はやる気持ちを抑えながら家を出た。


―そう・・・わかっていたことなんだ。

琴子に試練を与えたこの出来事は、琴子がオレとこの家にとって、なくてはならない存在だとい
うことを、あらためて気付かせてくれた。

琴子だけが、オレを微笑ませることが出きるのだということ。
そして、琴子がこの家に笑顔と幸せを運んできた存在なのだということを・・・



                                           END



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