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 鈍色(にびいろ)の予感

「入江君?私のこと本当に愛してる?」
琴子が、今にも泣きそうな顔でオレに聞いている。

「なに言ってんだ今さら・・・」
オレは、呆れて琴子から顔を背ける。

「そうか・・・やっぱり本当は私のことなんて愛してないんだね・・・」
琴子が、今にも消え入りそうな声でつぶやく。

「お、おい、誰もそんなこと・・・」 「もういいわ・・・さよなら入江君・・・」
オレが、驚いて振り向くと琴子は寂しげな微笑みを浮かべてオレに背中を向けた。

「琴子!待てよ・・・どこ行くんだ!」
オレは、叫びながら琴子に向かって手を伸ばした。
しかし、あと少しで届きそうだった手は、虚しく空を掴み、まるで幻のように琴子の後姿
がオレの前から消えた・・・


「琴子!」
そう聞こえたのは、自分の発した声だったのか、それとも夢の中の声だったのか・・・
オレは、目を開けると、ゆっくりと辺りを見回した・・・見慣れたオレ達の部屋が見えた。

「夢だったのか・・・」
オレは、ため息を付くと、サイドテーブルに乗せられた時計を見た。
まだ朝の7時・・・今日は、休日だからまだ寝ていてもいい時間だ。
ふとベッドの反対側へ手を伸ばす・・・ところが今朝に限ってどこまでいっても琴子の体
に指が触れない・・・
「なんだあいつ・・・珍しく早く起きたんだな・・・」

オレは、もう一度眠る気にもなれず、ベッドから出ると窓際に立ってカーテンを開けた。
せっかくの休日だというのに、空は鈍色の雲に覆われて今にも雨が降り出しそうだ。
目を閉じると、今見た夢の光景が浮かんでくる。

―なんであんな夢を見たんだろう?・・・

オレは小さく首を横に振りながら、もう一度外へと目を向けた。

昨夜、琴子が話していた看護科での話が思い出される。
新しい環境の中でも、琴子は持ち前のバイタリティーですぐになじんだようだ。
仲良くなったクラスメイト達のことを、楽しげに話す琴子を見ていて、オレのココロには
なぜか寂しさが浮かんだ。
結婚を隠れ蓑にするなと言ったのはオレなのに、オレの知らない世界へ飛び込んだ琴子の
楽しげな様子になぜかココロが揺れた。

―だからだろうか?・・・

自分の夢に向かって歩き出した琴子が、新しい何かを見つけたとき、オレはそれを手放し
で喜んでやれるのだろうか?
もしも、オレしか見てこなかった琴子が、オレよりも大切なものをみつけてしまったら?・・・

―そんなことがあるわけない・・・

笑って否定してみても、窓から見える雲のような色をした予感が胸の中に広がっていく・・・
そして、目覚める前に見た夢が、そんな予感をさらに増幅させていた。

「入江君?起きてた?」
ふいに声が聞こえて振り向くと、エプロンをつけた琴子が立っていた。

「おはよう・・・珍しく早く起きたんだな?・・・」
オレは、なんとなくほっとしながら言った。

「おはよう・・・今朝はお義母さんを手伝って、がんばって朝ごはん作ったのよ。もう出来
てるから入江君も早く着替えて!」
琴子が、そう言ってすぐに部屋を出て行こうとするのを、オレは引き止めた。

「琴子!」
オレの呼ぶ声に振り向いた琴子が、「何?」という顔をしながらオレの前に立つ。

オレは琴子を力一杯抱きしめていた。
琴子は、最初戸惑ったような表情を見せながらも、すぐに力を抜いてオレの胸にその身を
委ねてきた。
琴子の髪の香りと、頬のぬくもりがさっきまでの嫌な予感が胸の中から消し去っていく。
体を離して、不思議そうな顔でオレを見上げる琴子にキスをする。
琴子がこの上なく幸せそうな笑顔になる・・・オレも素直に幸せを感じる。

「すぐに着替えるよ」
「うん、じゃあ下で待ってるね・・・」

オレは、頬を赤らめた琴子に微笑みを返しながら、すでに持ち直している自分の気持ちに
呆れていた。

―オレも単純だな・・・

そして、琴子の作ったという朝食に一抹の恐怖を感じながら、手早く着替えると階下へと
下りていった。


しかし・・・

オレは、すぐにその朝の予感が当たっていたことに気付かされることになる。

鴨狩啓太・・・

その時はまだ名前も知らなかった一人の男の存在が、オレの胸の中に眠っていた新たな
感情を覚醒させる。


誰にも入る余地などないはずのオレと琴子の絆を揺るがすような出来事が、この先に待っ
ているとは、その時のオレは、まだ知るよしもなかった・・・

                       
                                             END



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