≪Menu
 オレの胸で・・・

”入江君!・・・”

琴子の声が聞こえた気がしてオレは目を開けた。
最初にナイトスタンドの光の輪が映る天井が見え、次に寝ているベッドの横へ顔を向けた。

―琴子は今夜は夜勤だ・・・いるはずがない・・・

そう思っても、夢を見ていたわけでもないのに不意に頭の中に聞こえたのは、まぎれもなく琴
子の声。
ベッドサイドの時計に目を向けると、オレンジ色のデジタルの文字が4:00と表示しているのが
見えた。

―琴子が泣いている・・・

そう感じたのは、耳に残る琴子の声がやけに悲しげに聞こえたからか・・・

―いったい何があったんだ?・・・

オレは、いつもなら琴子が眠っている枕を手で撫でながら、ざわつく胸をなだめながらもう一度
目を閉じた。


夜が明けて、オレは始発のバスを待って病院へ向かった。
真夜中に聞いた琴子の声がどうしても耳から離れなかった。
きっと何かあったに違いない・・・そう思ったら、顔を見ずにはいられなかった。

病院に着いて、まず真っ先に琴子がいるはずのナースステーションを覗く。すると奥から顔を
出した看護師長が驚いた顔をしてオレに声をかけた。
「まあ、入江先生こんなに早くからいかがされたんですか?・・・確か今日は日勤のはずでし
ょう?出勤までにはまだ2時間以上ありますよ・・・担当の患者さんに何か?」

「い、いえ・・・すいませんが、琴子を呼んでもらえますか?・・・」
オレは、不思議そうにオレを見ている師長に向って尋ねた。

「ええ・・・あっ、でも今ここにはいないわ・・・そういえばさっきから顔が見えないけど、どこ行っ
ちゃったのかしら?」
師長も、今あらためて気づいたように、あたりを見回しながら答えた。

「そうですか・・・ところで、今朝がた何かありましたか?・・・」
オレは、琴子の声が聞こえた時刻を思い浮かべながら尋ねた。

「えっ?ええ、ありましたよ・・・今朝がた4時過に琴子さんの担当していた患者さんの様態が
急変して亡くなったんです・・・」
師長は、少し悲しげな表情を浮かべながらそれでも淡々と報告するように答えた。

「そうですか・・・」

「でもね入江先生?・・・その時の琴子さんがね、とても立派だったんですよ・・・一緒に担当
していた新人ナースが急なことにショックを受けて泣き出しそうになるのを叱りつけながらちゃ
んと仕事をこなしていましたから・・・ホント、いろいろ大変だったけど、彼女も成長しましたね」
師長は、感慨深げに言うとオレを見てにっこりと笑った。

―なるほど・・・そういうことか。

オレは、師長に礼を言って別れると、真っ直ぐに自分のオフィスへ向かった。
琴子が人目を気にせず泣ける場所は、この病院の中にはオレの部屋しかない・・・そう確信しな
がらドアノブを回すと、案の定部屋の鍵は開いたままになっていて、ドアを開けると中からは琴
子の嗚咽が聞こえてきた。

オレは、そっと部屋の中に入ると、ドアの横の壁に寄りかかって琴子の姿を見つめていた。
琴子は、ソファに腰かけて抱き枕に顔を押し付けるようにして泣いていた。
「おい、新人ナースには泣くなと叱っておいて、お前はこんなところで一人でメソメソしてるのか?」
オレの声に驚いた琴子が、弾かれたようにソファから立ち上がる。
「い、入江君?!・・・どうして?・・・」

オレは、部屋の奥に入っていくと棒立ちになっている琴子の肩を抱いてソファに腰かけた。
泣きはらした目を大きく見開いて琴子がオレを見ている。
オレは、琴子の涙を指で拭ってやりながら何も言わずに微笑んだ。

「ど、どうしたの?・・・まだ家にいる時間じゃないの?・・・そう思ったからここに来たのに・・・」
戸惑いを隠せない琴子が矢継ぎ早に言葉を並べる。

「あーあ、いくら隠れて泣いたって、こんな顔じゃバレバレだぞ・・・」
オレは、呆れたように笑いながら琴子の顔を両手ではさんで覗き込んだ。

「だって・・・やっぱりすごく悲しくて・・・」
「そうか・・・お前も一生懸命やってたもんな・・・」
「うん・・・でも、本当にどうしたの?・・・患者さんに何かあって呼び出されたの?」
「違うよ・・・」
「じゃあ、どうして?・・・」

琴子がしゃくり上げながらオレの顔を覗き込む。

「だって、お前オレを呼んだだろ?」
「えっ?・・・」

そして琴子は、何かに気づいたように、はっとした顔でオレを見ると、抑えようもなく溢れ出す涙
を懸命にぬぐいながら言った。
「思ったよ・・・私、入江君に会いたいってすごく思ってた・・・」
オレは、そんな琴子を何も言わずに抱き寄せた。

琴子の嗚咽を顎の下で聞きながら、胸の中に切ない思いが広がる・・・
それは、日々人の命と向き合いながら、つい忘れてしまいがちな大切な何かを思い出させてく
れていた。
だから、こんな時には一人で泣かなくていい・・・

―お前がピンチの時、オレにはお前が心でオレを呼ぶ声が聞こえることがわかったから・・・

「まったく・・・いつまでたっても一人前になれないな・・・」
言葉とは裏腹にオレは琴子を強く抱きしめる。

たまらなく愛おしいと感じるのは、それがいつになっても変わらない純粋な情熱と優しさが零す
涙だとわかっているから・・・
だから、その涙は、いつでもオレの胸で・・・

―お前の心がオレを呼ぶ限り、いつでも必ず受け止めてやるよ・・・

琴子の笑顔がオレの心を癒すように、オレの腕の中が琴子にとってどこよりも安らげる場所な
のだとオレは知っているから・・・


                                            END


Menu