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 幸せを抱きしめて・・・続・「窓ガラス

「そういえば、話したかったことってなんだったんだ?・・・」
オレは、バスルームのドアを後ろ手に閉めながらふと琴子に尋ねた。

「ん?・・・ああそうか・・・私、入江君に話したいことがあったんだった・・・」
先にベッドに入っていた琴子が、今にも眠ってしまいそうだった瞼を無理やり開きながら振り向いた。

甘い時間に遮られて聞き損ねた話しを聞いてやろうと思ったのは、もう少し琴子を抱きしめていた
いと思ったから・・・
オレは、琴子の隣に体を滑り込ませると、その背中から腕を回して抱き寄せた。
シャワーを浴びてまだ湿り気のある髪の香りを胸一杯に吸い込むと、その日の疲れが一気に消え
ていくような気がした。

「今日ね・・・」
琴子が、前を向いたまま話し始めた。
「すごく久しぶりにじんこと理美に会ったの・・・」

―えっ?・・・これはしまった!

オレは、まだ聞きもしない内から琴子に話しを促したことを後悔し始めていた。
琴子の高校からの友人2人の名前が出て来たということは、きっと思い出話に花が咲いたことの
報告に違いない・・・そうなると、今のオレには不利な展開になることは必至だ。
しかし、琴子は胸の前で交差するオレの腕を撫でながら、楽しそうに話しを始めてしまっていた。
「高校の頃のことから、今のことまでホントいっぱい話したのよ・・・時間なんてあっという間に3時
間くらいたっちゃって慌てて帰って来たの・・・ホント楽しかった!」

「そうか、よかったな」
オレは、今始まったばかりの話しをどう遮るか考えながら気のない返事を返した。
しかし、そんなニュアンスが伝わるわけもなく、琴子は嬉しそうに話しを続けた。
「うん!・・・それでね、その時にじんこが言ったの・・・」

<ホント入江君は、どうして琴子のことを好きになったのかって、今でも不思議に思うのよね〜
でもさ、私たちが初めて入江家に行った時だったかな・・・何でか知らないけどあなたたち言い争
いをしててそこに金ちゃんが割って入った時があったじゃない?・・・その時の入江君のセリフが
今でも忘れられないのよね・・・>

「あの時、入江君何て言ったか覚えてる?」
琴子が、その瞬間だけ顔をこちらに向けて尋ねた。

「そんな昔のこと覚えてねーよ」
オレが素っ気なく答えると、琴子はがっかりしたように口を尖らせた。

でも本当は・・・

―忘れるわけねーだろ。

あの時、オレは琴子に手を出すなと言った金之助の挑発的な言葉に、それまで感じたことのない
感情に襲われた。
今思えばあれも嫉妬のようなものかもしれない、それとも男のプライドか・・・

ただ、食いつかんばかりの勢いで絡んでくる金之助をからかってやろうと思っただけだった。
オレにとって琴子は鬱陶しいだけの存在だったのに、それでも琴子が心配で真剣にオレをけん制
しようとしているらしい金之助の態度がバカらしく思えてしかたがなかったから・・・
それなのに、あの時ほんの口からの出まかせで言ったつもりのことが、今は回り回って真実にな
っている。

<今日は嫌いでも明日は好きになっているかもしれない・・・>

まさか、このオレが琴子を愛してしまうとは・・・いったいあの時あの場にいた誰が想像しただろう・・・

―まあ、オフクロぐらいのもんだな・・・

「お、おい琴子・・・」「それでね!」
オレは話しの矛先が怪しくなりそうな気がして、琴子の話しを遮ろうとした。
しかしその瞬間、琴子が何か思いついたように満面の笑顔で勢いよく振り返った。

「な、なんだよ・・・」
オレは、その勢いに少しのけ反りながら返事をした。

「あの時は、私のラブレターを家族の前で暗唱されて、本当に恥ずかしくて腹が立ったけどね、嬉し
いこともあったことを思い出したんだ・・・」

「ん?・・・」

「あの時ね〜入江君が初めて・・・うふふ!」
琴子は、含み笑いをしながらもったいつけたように上目づかいでオレを見上げた。

「ああ・・・オレがお前を初めて”琴子”って呼んだことか?」
オレは、わざとらしいほどに素っ気なくその答えを口にした。

「えっ?・・・」
琴子は、呆気にとられたように口を開けてオレを見た。

「なんだ?・・・違うのか?」
オレは、琴子の表情がおかしくて吹き出しそうになりながら尋ねた。

「そ、そうだけど・・・なんだあ、ちゃんと覚えてるんじゃない!」
琴子は不満げに答えると、さらに言葉を続けた。
「もちろん、後になってからかわれただけだって気づいたけど、あの時初めて私の名前を呼び捨て
にしてくれたんだよね・・それからは”お前”とか”あんた”とかの中に時々”琴子”って呼んでくれるこ
とがあるたびに嬉しくてドキドキしてたんだよ・・・琴子って呼ばれた日を手帳にメモしたりしてね・・・」
琴子はうっとりと夢見るように宙に視線を漂わせながらそう言った。

思い出とは時に厄介なモノだと思いながら、オレは何も答えずに琴子の横顔を見つめていた。
それが鮮やかであればあるほどに、その時の感情もリアルに呼び覚まされて、今とのギャップに胸
は締めつけられ、思わず言い訳のひとつも言ってしまいそうになる。

あの頃の自分に出会うとチクチク胸が痛むのは、今は心から琴子を愛しているから・・・
それでもあの頃を後悔していないのは、琴子があの頃のオレを好きになったからこそ今があるのだ
とわかっているから・・・

―そういうことだよな・・・

「話したかったことって、そんなことか?・・・」
オレは、少しセンチメンタルになった自分が照れくさくて、さらに素っ気なく聞いた。

「えっ?・・・えへへ、そうだね入江君にはつまんない話しだね・・・まあ、久しぶりに盛り上がってす
ごく楽しかったって話しだよ・・・それで今がすごく幸せだってことを、あらためて実感しちゃったって
言いたかったの・・・」
琴子はそう言ってはにかんだように笑った。

オレ自身がどれ程あの頃の思い出に責められ続けているか、どれ程反省しているかなど琴子に
はお構いなしだ。
しかし、琴子にとってのそれは、幸せを紡いできた思い出の小さなひとかけらだと言うことらしい・・・
それで琴子が笑っているなら、時にはその矢面に立たされるのもいいだろう・・・

オレは、黙ったまま琴子を抱きしめていた腕に力を入れた。
すると琴子が瞼を閉じながらひとり言のように囁いた。
「このまま眠っちゃいたいな・・・」

「いいよ」
「えっ?・・・」
琴子が、一度閉じた瞼を開いて驚いたようにオレの顔を見た。

「なんだよ・・・」
「だって、ずっとつまらなそうにしてたのに、急にすごく優しい声だったから・・・」
「じゃあ今まではどんな声だったんだよ・・・」
オレは心外だというように琴子の顔を見た。
琴子は、クスクスと笑いながら再び目を閉じた。

「なんだか・・・幸せに・・・抱きしめられて・・・る感じ・・・」

琴子は、まるで寝言のように歯の浮くようなセリフをつぶやきながら、あっという間に静かな寝息を
立て始めた。

あの日のことは、琴子にしてみれば家族の前で十分に辱められて苦い思いばかりが残っている
はずのエピソードだと思っていた。
それが、ただひとつオレが初めて”琴子”と呼んだことだけでいつの間にか幸せな思い出にすり替
わってしまっていた。

そんな不思議に、オレは何度も琴子に惹かれていく・・・
いつも、この腕の中にいる琴子こそが、”幸せ”そのものなのだと気づかされる・・・



オレは、腕の力を抜くとそっと琴子の頭をあごの下に抱き寄せてから目を閉じた。
柔らかな肌の感触と、甘い髪の香りがオレを包み込む・・・


そうしてオレは、オレの幸せを抱きしめながら眠りの中に引き込まれていった・・・


                                             END


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