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 不機嫌な女神

「ただいま・・・」
「おかえり・・・」

―ん?・・・

いつもと同じ帰宅の挨拶をかわしただけなのに、オレはふと違和感を感じて琴子の顔を見た。
琴子は、オレが振り向くとは思っていなかったのか、不意に目が合ったことに少し驚いた表情を浮か
べて、すぐに目をそむけた。

「なんだよ・・・なんかあったのか?」
オレは、ベッドの上で雑誌をめくっている琴子に声をかけた。

「別に・・・」
琴子が答えた。

そうか・・・おかしいと思ったのは、琴子の返事の仕方だ。
いつもなら、「ただいま」と部屋に入って行けば満面の笑みでオレを見ながら嬉しそうに纏わりつい
て来るというのに、なぜか、今日はオレと同じトーンで返事をし、振り返って見た顔に笑みはなかった。
そして、オレの問いかけに「別に・・・」なんてひと言だけで答えることなど琴子に限ってありはしない・・・

―何か変だな・・・

オレは、部屋の奥で着替えをしながら体を逸らして、ベッドの上の琴子を盗み見た。
すると、琴子も雑誌を手にしたまま首を伸ばしてこちらを伺っているのが見えた。

―うーん・・・益々おかしい・・・

ふと気付くと、琴子の視線を背中に感じる。
いったい何をたくらんでいるのか・・・どうやらオレを試そうとしているのはわかるが、その理由がな
んなのか見当がつかない。
結局琴子は、その夜は不機嫌そうな顔のまま、ほとんど会話らしい会話もしない内にベッドにもぐ
りこんで先に眠ってしまった。

翌朝、朝食の席に着くと昨夜感じた違和感は一層顕著なものとなった。
オフクロとは楽しげに会話しているというのに、オレには一切話しかけず、あえて支度を遅らせてオ
レが先に出かけることにも文句のひとつも言わなかった。
それでも、その表情をそっと盗み見れば、不安げな顔でこちらを見ている時もある・・・いったい何
のつもりなのか・・・

オレは、その日一日気付くと琴子のことばかりを考えていた。
琴子をあそこまで不機嫌にしている原因は、どう考えてもオレ以外にない。
それでも、琴子が正面切って文句も言わず泣いて訴えることもなく、態度だけでオレに何かを知ら
せようとしたことなど今までにはなかった。
もし、オレが思った通りあの不機嫌な態度がオレに何かを気付かせたいがためのたくらみなら、笑
いもせず何も話さないでいることがそう長く続くはずもない・・・

しかし、オレはふとその琴子からの無言のメッセージを気付いてやらなければならないような気が
していた。
琴子が我慢しきれずに種明かしをしてしまう前に・・・

―あいつが笑ってないとこっちも調子が狂う・・・



その日の午後、オレは医局から自分のオフィスへ向かう廊下で、前を歩いている桔梗幹を見つけた。

―そうか!

もし本当に琴子がオレを試しているとして、それを琴子一人で考えて実行しているとは到底考えに
くいことだと気付いた。
琴子なら、どんなやり方にしても正面からぶつかってくるはずだ・・・ということは、必ず琴子に知恵
を付けた奴がいるに違いない。

―このオレ様をハメようなんて10年早いんだよ。

オレは、思わず口元に浮かぶ笑みを掌で隠すようにしながら、前を歩く桔梗に声をかけた。
「よお、桔梗」

「あら、入江先生。珍しいですね、先生から私に声をかけてくるなんて・・・」
桔梗は、あからさまに面食らった顔をした。

「まったく昨日は琴子がずっと不機嫌で参ったよ。オレもやっとわけがわかって仕事が終わったら
謝ろうと思ってるんだ。」
オレは、横目で桔梗の様子を伺いながら慎重に言葉を選びながら言った。

「えっ?ホントですか?さすが、入江先生!ちゃんと気づいてくれたんですね?もう、琴子ったらた
った1日でくじけちゃってたんでさっきももう少しがんばれって励まして来たところなんですよ!やっ
ぱり家にいるのにずっと相手が仏頂面じゃつまらないでしょう?これからはせめて帰って来た時や
朝の挨拶くらいは笑顔でしてやってくださいね・・・」
桔梗は、ほっとした顔でオレを見て笑った。

―なるほど、そういうことか・・・

オレは、たった今桔梗に聞いたことを頭の中で整理しながら、ふと心にチクチクとした痛みを感じ
ていた。
そして、すでに廊下の先へ歩いて行った桔梗をもう一度呼びとめた。
「おい、桔梗。今オレが言ったことは琴子には内緒だぞ。オレが自分で言う」
すると、桔梗は満面の笑みで振り返ると、大きく頷いて行ってしまった。

確かに、相も変わらず仕事は忙しく、家には寝るだけに帰っているようなものだった。
それでも、琴子はオレが病院に泊ることなく毎日帰ってくることを喜んで、どんな時でも笑顔で迎
えてくれていたのに・・・
そして、オレ自身どんなに疲れて帰っても、琴子の笑顔を見るだけでとても癒されていることは
かっていたのに・・・

オレは、昨夜たった一晩琴子が不機嫌だっただけで、一日中その理由をずっと考えていた自分を
振り返った。
それは、琴子がこのたくらみでオレに気付かせたかったことは十分に伝わったということだ・・・



オレは、その日の夕方、本当は少し残って報告書を仕上げようと思っていた予定を明日に回して
定時で上がった。
そして出口に向かって歩きながら琴子にメールをしようと携帯を取り出すと、当の琴子がオレに気
付かず前を横切って行った。
丁度更衣室から出て来たところらしく、同僚たちと楽しげに会話しながらオレの前を歩いている。
オレは、しばらくそのまま後ろを歩いて行くと、バス停の手前で琴子を呼びとめた。
「琴子!・・・」

「えっ?・・・入江君??」
オレの声に、驚いて立ち止った琴子はなかなか振り返ろうとしない。
どうやら、それまで思いっきり笑いながら歩いていた顔を元に戻せずに四苦八苦しているらしい・・・

―まったく、不機嫌な顔なんて慣れないことするからだ・・・

オレは、思わず吹き出しそうになるのをなんとか堪えながら、琴子の真後ろから「ちょっと付き合え」
と声をかけて、そのまま歩き出した。
桔梗はどうやらオレとの約束を守ってくれたらしく、オレが気付いていることを知らない琴子は同
僚たちに励まされながら小走りにオレを追いかけて来た。

しばらく何も言わずに歩いていると、痺れを切らしたのかあえて不機嫌そうに作った声で琴子オレ
に尋ねた。
「ね、ねえ入江君?・・・どこにつき合うの?」

「別に・・・」
オレは素っ気なく答えた。

「えっ?・・・だって、さっきどこかへ付き合えって・・・」
戸惑った様子で琴子はひとり言のようにつぶやいた。

オレは、振り向くと口を尖らせてぶつぶつと何か言っている琴子に向かって、左手を差し出した。
お前を笑顔にする方法なんていくらでも知ってる。
お前がどうすれば幸せな気持ちになれるのかも知ってる。
そして、お前が幸せそうに笑っていることがオレの幸せだということも・・・

―ごめん。

オレは、オレが手を差し出した意味を計りかねている琴子を見ながら、それがあまりにも琴子に
とっては意外なことなのだとあらためて感じていた。

―オレから手を繋ごうとしたことなんてなかったもんな・・・

「何きょとんとしてんだよ。手を出せよ。早くしないと行っちまうぞ!」
オレは、柄にもないことに照れている自分を感じながら少し怒ったように言った。

「えっ?えっ?・・・手を、手を繋いでくれるの〜〜〜??」
琴子は口をパクパクさせながら、驚きの声を上げた。

―そんなに驚かなくてもいいだろ・・・

オレが苦笑しながら頷くと、琴子は満面の笑みを浮かべながら飛びつくようにオレの腕にしがみ
ついた。

「昨日からなんで不機嫌だったんだよ?」
「えっ?そ、そんなことないよ・・・気のせいだよ」
「そうか?・・・あんな冷たい態度とられたの初めてだったけどな・・・」
「ええ?そ、そんなに冷たかった?・・・ど、どうしよ・・・」

オレは、さっとあたりを見回すと今にも泣きそうな琴子の額にキスをした。
琴子は、オレを見上げてこの上なく嬉しそうに笑った。


そう・・・そうやって笑っているのがいい。
オレも、これからは肝に銘じるさ・・・

―お前が不機嫌だと、誰よりも一番困るのはオレだからな・・・


                                             END


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