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 オレの一番好きな瞬間

ある夜のこと・・・
バスルームから出てきた琴子が、ドレッサーの前に座ってドライヤーで髪を乾かし始めた。
オレは、パソコンのモニターと手元の資料を交互に眺めながら、数日後の手術計画の仕上
げに取り組んでいた。
そんな時、ふとドライヤーの音が消えた瞬間に琴子がつぶやいた。
「ねえ、入江君?・・・私、髪を短く切ろうかと思うんだけど、どう思う?」

―えっ?・・・

思いもかけない言葉に、キーボードの上で手が止まる。
振り向けば、オレに背中を向けて座っている琴子の向こうの、鏡に映った琴子が小首をかし
げてオレを見つめている。

「どうしたんだ急に・・・」
オレは、なぜかひどく動揺している自分を感じながら、努めて冷静に聞き返した。
すると琴子は、人差し指を顎に当てながら、大きな瞳で天井を見つめてしばらく考える仕草
を見せてから答えた。
「うーん、なんか子供っぽいし、乾かすのに時間がかかるし、仕事のときにはアップにした
り結んだり毎日大変だし・・・」

オレは、琴子の返事を聞きながら、わざとらしいほど吹き出しながら言った。
「髪を切ったら大人っぽくなるのかよ、そんなの中身の問題だろ。それに乾かしたり、結ん
だりが大変っていうのは、ただ面倒なだけだろ・・・」

オレの言葉を聞きながら、琴子の頬がみるみる膨らんでいく。
「そ、そんな言い方しなくてもいいでしょ?・・・別にまだ切るって決めたわけじゃないのに・・・」
琴子は、オレから視線を反らして小さな声でそう言うと、再びドライヤーのスイッチを入れて
髪を乾かし始めた。

部屋の中に気まずい空気が漂い、それをドライヤーの温風がさらにかき混ぜてオレ達を黙
らせていた。

―琴子が髪を切る?・・・

いったいなぜ、琴子は急にそんなことを言い出したのか?
オレは、どうしてこんなにもそれが嫌なのか?
オレは、そっと横目で琴子を見た。
琴子は仏頂面のまま、乱暴に髪を梳かしながらドライヤーをあてている。

ドライヤーの風に煽られて琴子の髪がなびくのを見ながらふと浮かぶのは、琴子を抱きし
めた時に頬に絡みつく髪のやわらかな感触。
振り返る時に、さらさらと音が聞こえそうに広がってまとまる髪の動き。
そして、何よりもオレの一番好きな琴子の香り・・・それは、たぶん琴子の髪の香り・・・

―オレの一番好きな琴子の長い髪・・・

オレは、少しの間物思いに耽っていたらしい・・・
「ね、ねえ・・・入江君?」という琴子の声に、ふと我に返るといつの間にかドライヤーの音も
止んで、横に立った琴子がオレの顔を覗き込んでいた。

「な、なんだよ・・・」
オレは、少し驚いて琴子の顔を見上げた。

「あ、あのね・・・も、もしかしたら入江君は、私が髪を切るのは、い、嫌なのかなあ〜って思
って・・・」
琴子が、何度も噛みながら照れたようにオレに尋ねる。

「えっ?・・・」


『何言ってんだ。お前がどんな髪型にしようとオレには関係ないね・・・』
こんな言葉を掛けて、また琴子を怒らすのがいつものオレらしいのかもしれない・・・しかし
その時の不意打ちのような琴子の言葉に、オレは柄にもなく絶句したまま黙り込んでいた。
何も言い返さないオレの態度を否定と受け取ったのか、琴子はすぐにがっかりとしたように
肩を落としてベッドに寝転がった。

「入江君が、ダメって言ってくれたら嬉しかったんだけどな・・・」
ひとりごとのように琴子がつぶやく。

「やめておけよ・・・」
オレは、努めて素っ気なく言い放った。

「えっ?・・・」
琴子が背後のベッドの上に起き上がる気配がする。

「短い髪なんて似合わないよ。そのままの方がいい・・・」
オレは、琴子の視線を背中に感じながら、さりげなく言った。

「ほ、ホント?・・・」
琴子が、さらにベッドから立ち上がったのが、パソコンのモニターに映る。

「ああ・・・」
オレは、答える。

「ね、ねえ・・・それって、入江君は私の長い髪が好きってこと?」
琴子が、探るようにおずおずと尋ねる。

「・・・・・・」

「ねえ、そういうこと・・・だよね?」
琴子は、オレの真後ろに立って、念を押すように尋ねた。

「・・・・・・」

「ねえ、そうなんでしょ?・・・」
その声音は、オレが琴子の望む言葉を答えなければ、この場が治まらないとオレに告げて
いた。
今度のオレの沈黙は、琴子を引き下がらせる力は持っていなかったようだった。


―負けた・・・


「ああ、そうだよ!お前の言う通りだよ・・・これでいいか?」
オレは、大げさに両手を上げながら、琴子の言葉を肯定した。
すると、琴子はすぐに背中からオレを抱きしめると、「よかった。入江君に相談して・・・」と囁
いてそのままオレの頬に、その頬を押し付けた。

琴子の洗いたての髪が、オレの顔の前にさらさらと流れるように現れる・・・
こんな瞬間がとても好きだ・・・今まであらためて感じたことなどなかった想いが、ふと脳裏
をかすめる。

オレは、指で琴子の髪をかきあげながら、顔を横に向けてそっと口づけた。



翌日・・・

朝から美容院に出かけた琴子は、家を出る時に満面の笑顔でオレに告げて行った。
「ほんのちょっとだけ、傷んだ毛先だけ切ってくるね・・・短くなんてしないからね・・・」


                                          END


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